(3)【第1部 8年余の歳月】避難生活…心労の父 関連死認定に悔しさ

桜の木の下で写真に収まる(右から)明美さん、一彦さん、大地さん=2017年春
桜の木の下で写真に収まる(右から)明美さん、一彦さん、大地さん=2017年春

 二〇一七(平成二十九)年四月、埼玉県北本市の病院。東京電力福島第一原発事故で双葉町から埼玉県加須市に避難した小畑大地さん(15)は、病室のベッドに横たわる父親の一彦さんを見つめた。「ママのこと、頼んだぞ」。それが父の最後の肉声となった。享年五十四歳だった。

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 一彦さんは線路補修などの事業を展開していた浪江町の会社に勤務していた。原発事故発生後は加須市で双葉町臨時職員として働き始めた。もともと酒好きだったが二〇一四年、自身の両親が加須市、白河市と避難を続けた末に相次いで亡くなると、酒量が増えていった。

 加須市のサッカークラブに所属していた大地さんの応援に駆け付け、コーチの声が聞こえなくなるぐらいの大きな声援を送った。しかし、家の中では妻の明美さん(52)に「自分たちはこれからどうしたらいいのか」とたびたびこぼした。明美さんは「あなただけがつらいわけではないと励ましたが、人一倍悩む人だった」と振り返る。

 ただ、「双葉町に帰りたい」とはあまり言わなかった。明美さんは「原発事故の帰還困難区域となり、長期間手付かずの古里に戻りたいと思わなかったのではないか。帰りたかったのは震災前の双葉だったのかな」と推測する。

 二〇一六年十二月、一彦さんは肝臓を悪くして倒れた。さまざまなストレスを抱えて一彦さんの体は限界を迎えていた。

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 車椅子が必要となった一彦さんは大地さんの小学校の卒業式に出席できなかった。明美さんと大地さんは週末になると、入院中の一彦さんを見舞った。学校であった出来事、友達との会話の内容などたわいもない話で笑った。

 二〇一七年四月。中学生になった大地さんを祝福するように、病院敷地内の桜が咲き誇っていた。満開の花の下、一彦さんを囲んでカメラに収まった。これが、全員で撮った最後の家族写真となった。

 震災(原発事故)関連死の申請はしていない。一彦さんの両親が亡くなった際、一人しか認定されなかったからだ。「理由が分からなかった。古里を追われ、見知らぬ地での生活を余儀なくされた二人に、何か違いはあるのか。二度と悔しい思いはしたくない。同じ思いの人は多いのではないか」。明美さんが明かす。

 大地さんは将来、教師になる夢を抱く。双葉にも加須にも強いこだわりはない。父の最後のメッセージを胸に、ただ未来に向けて着実に歩みを進めたいと思っている。