(8)【第1部 8年余の歳月】「最高のまち」一変 自宅が中間貯蔵候補

「帰っても、帰った気がしなくてね」。東京電力福島第一原発から南に約三百メートルほど離れた大熊町夫沢の帰還困難区域に、元町総務課長の鈴木久友さん(67)の自宅はある。原発事故発生後、「いつでも住めるように。周囲の見本になるように」と定期的に一時帰宅して庭の手入れを欠かさなかった。しかし、ここ最近はすっかり足が遠のいている。
自宅を含む周辺は除染廃棄物を一時保管する中間貯蔵施設の整備候補地だ。近所の家は既に解体された。家の前の県道を工事車両が行き交って砂ぼこりが舞い、庭木の葉が真っ白になる。
海や山が近く、田園風景も広がる「最高のまち」だったかつての面影はどこにもない。
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鈴木さんは二〇一一(平成二十三)年三月十一日の事故発生時、ほとんどの町民が避難した後も緊急対応のため町役場に残った十人のうちの一人だ。原発がある方向から聞こえた、「パーン」と乾いたような爆発音が今も耳に残る。
将来が見えず殺気立った町民から胸ぐらをつかまれ、罵声を浴びせられた。昼夜を問わず町民対応に当たった。疲労は限界に達していた。逆境にあっても使命感、自負心が体を突き動かした。「最後まで血の通った行政を全うする」
町震災記録誌によると、国は事故から五カ月後の二〇一一年八月、県に中間貯蔵施設整備を打診。二〇一二年三月には大熊、双葉、楢葉の各町の名前が挙がった。鈴木さん自身は戸惑いながらも「今後三十年の原発周辺の土地利用を考えればやむを得ない」との思いだった。
しかし、施設を受け入れれば、古里への帰還が当面かなわぬ住民が出てくる。「中間貯蔵施設を受け入れると、そのまま最終処分場になってしまうのではないか」。町内から不安や懸念の声が上がった。
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二〇一二年十二月、警戒区域は帰還困難、居住制限、避難指示解除準備の三区域に再編され、帰還困難区域以外は日中の立ち入りが自由になった。当時、役場機能は会津若松市といわき市などにあった。「自宅が泥棒に入られている」など町民からの相談事は多かった。役場から離れた町内での対応が後手に回らぬよう、鈴木さんは居住制限区域だった大川原地区に拠点を設けることを提案した。
それから間もない二〇一三年三月末、定年退職を迎えた。「町民の最前線に立ち、町民の生命と財産を守るのが俺の役目だ」。町の元幹部職員らで構成する通称「じじい部隊」のリーダーとなった。避難先の郡山市から自ら提案した大川原の拠点に通い、一時立ち入りする町民の支援やパトロール、草刈り伐採といった帰還環境の整備などに当たった。
二〇一四年十二月。総務課長時代から気に掛け続けていた中間貯蔵施設受け入れを町が表明した。候補地に、夫沢の自宅周辺が含まれていた。