東日本大震災アーカイブ

(13)迎えの娘に「おばけ」 極限状態 母の"異変"

美恵子さん(右)は手の届く所にハツミさんの写真を置いている

 母の山本ハツミさん=当時101歳=を預けた都内の総合病院から練馬区の自宅に向かう車中。篠美恵子さん(65)は男性医師の言葉が頭から離れなかった。「被ばくしている人は診察したくない」。予想もしていなかった差別の言葉は脳裏にこびり付いてしまった。
 4日前、ハツミさんを避難先の郡山市に迎えに行ったときも、夫の常雄さん(65)が運転する車の助手席にいた。あのときは不安でいっぱいだった。思えば怒りも、不安も、東京電力福島第一原発事故ゆえのことだった。
 1号機で水素爆発が起きたあの日、3月12日。双葉町の特別養護老人ホームせんだんに入所していたハツミさんは、突然の避難で浪江町を経て南相馬市に向かっていた。15日、南相馬市の渡辺病院から特別養護老人ホーム長寿荘にハツミさんが移ったのを美恵子さんは伝え聞いたが、通信状態などが悪く、その後の所在はつかめなかった。
 「郡山の養護学校にハツミさんを連れてきています」。せんだんの職員に電話がつながり、母の所在が分かったのは17日のことだった。「ですが、ペットボトルの水とおにぎり1つしかあげられない状態です」。職員の言葉は切迫していた。
 車は、このときに備えてガソリンを満タンにしていた。報道は福島第一原発で相次いだ水素爆発や火災など事故の過酷さを伝えていた。「いま福島に行くのは危険すぎる」と娘は引き留めた。美恵子さんは「迎えに行ってくる。親だから」と、常雄さんと共に車に乗り込んだ。
 「早くしなきゃ」。焦る気持ちとは裏腹に東北自動車道は通行止め。4号国道も込んでいた。「自分自身、福島に近づくにつれ放射能への恐怖が湧いてきた」という。
 郡山養護学校に着いたのは18日午前0時を回っていた。「放射性物質を含んでいたであろう雪がしきりに降っていた」。常雄さんと小走りで玄関に向かった。
 ハツミさんは歩いて玄関先まで出て来た。重ね着の胸に貼られたガムテープに母の名前が書かれていた。12日の避難当時のままなんだと思った。愛用のメガネや補聴器も身に着けていなかった。
 「常雄さん」と夫を見て表情を和らげたハツミさんが、雨がっぱにマスク姿の美恵子さんを見るなり「おばけだ」と尻込みした。ハツミさんに認知症はなかった。「極限状態だったのだと思う」。母に生じた異変がショックだった。

カテゴリー:原発事故関連死