■飯舘から喜多方に避難 友田美代子さん 46
「かけそば1つ!」。喜多方市塩川町で暮らす飯舘村の主婦友田美代子さん(46)は4日、市内で開かれた「会津駒形そばの会」の新そば祭りで配膳などを手伝った。
そばを打つ近所の住民との会話が弾む。東京電力福島第一原発事故による避難生活で縁の大切さをあらためて感じた。家探しに始まり、日常生活でも周囲の善意に支えられている。
友田さんは川俣町出身。平成17年に畑仕事ができる場所を求めて家族で飯舘村に移住した。慣れない土地での不安は村民の優しさですぐに消えた。ずっとここで生きていくと決めた。
第二の古里を原発事故で追われた。村は全村避難を決めた。夫洋さん(48)の知人の紹介で会津若松市のアパートに移り住んだ。アパート近くの公民館長の男性に落ち着いて住める場所を探していることを話すと、喜多方市塩川町駒形地区に住む知人男性を紹介された。男性は同地区の一軒家を見つけてくれた。
昨年5月に引っ越した時、近所の人が1日かけて家を片付けてくれた。現在は洋さん、母ナミ子さん(69)、長女優子さん(12)、次女温子さん(10)、三女和子さん(8つ)と6人で暮らす。
昨年10月から近くの「蒲生農園」で苗植え、収穫、加工などを手伝う。代表の蒲生勝仁さん(62)は「人手がない中で助かる」と話す。地元のイベントにも積極的に参加し、野菜を分けてもらうこともある。地域の一員として溶け込んでいる。
だが、飯舘のことが頭から離れることはない。友田さんには2つの時間軸が存在するという。日常では朝起きて、娘を学校に送り出し、洗濯して...という避難先での毎日が続く。一方、飯舘に戻れるかは不透明で飯舘村民としての時間は止まったままだ。
それでも今は前向きだ。「帰りたい気持ちはあるけど、今いる場所で頑張りたい。村の方向性が決まるまで家族が健康に暮らせることが一番」と話す。「友達と遊ぶのが楽しい」という娘の言葉が何よりありがたい。
(カテゴリー:連載・今を生きる)