まんまるな顔と耳に、つぶらな瞳のクマのぬいぐるみ。
自営業庄子ヤウ子さん(74)が一体ずつ、丁寧に縫い上げる。
名前は「あいくー」。遠く離れた古里の福島県大熊町まで続く、「空(そら=くー)」への思いを込めた。大手化粧品メーカーや航空会社ともコラボレーションした、自慢のぬいぐるみだ。
庄子さんが制作に励んでいる「あいくー」
東京電力福島第一原発の事故により、避難生活を余儀なくされてから、11年。
慣れ親しんだ土地には戻れない。でも、古里への思いが色あせることはない。「つらいけど、前を向いて自分の足で立ち続けないと」
愛らしいぬいぐるみに、込める思いとは―。
戻りたい、でも、帰る家がない
福島県沿岸部の大熊町は原発事故で約4900ヘクタールが帰還困難区域となり、そのうち約1100ヘクタールが除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設の用地となった。庄子さんの自宅は、中間貯蔵施設用地に含まれている。「大熊に戻りたい。でも、帰る家がない」
大熊町で整備が進められている中間貯蔵施設。原発事故による除染廃棄物が一時保管される。庄子さんの自宅の土地は中間貯蔵施設の用地となった
2011年3月12日、原発事故に伴う全町民への避難指示を受け、庄子さんは内陸部の田村市に移った。小学校の体育館などで寝泊まりする生活が続いた。3カ月ほど過ぎたころ、福島第一原発から約120キロ離れた会津若松市の仮設住宅に入居した。大熊町が役場機能を会津若松市内に移すと知り、この地で暮らそうと決めた。
「自分や子どもたちにとって、帰る家がほしかった」。2016年、同市内に住宅を新築した。落ち着いた日々を過ごしているものの、古里が恋しい。
大切な土地、すぐには手放せない
2016年8月、環境省の職員が自宅を訪ねてきた。大熊町の家を中間貯蔵施設の用地として提供するよう求められ、同意書への押印を促された。所有地が中間貯蔵施設用地に指定された住民には二つの選択肢が与えられた。一つは土地を国に売却して手放すこと。もう一つは、所有権を残したまま土地を施設に使用させる「地上権」の行使だ。
大熊町にあった庄子さんの自宅(原発事故前の様子)。庭に咲き誇る梅の花がお気に入りだった
庄子さんが家族5人で暮らしていた家は、父親から受け継いだ土地に建っていた。大切な土地を「はい分かりました」とすぐに手放せるはずがなかった。どうすべきか悩んでいた庄子さんに、2人の娘から冷静な言葉が投げ掛けられた。「いつ元通りになるか分からない土地なんて、私たちに残してもらわなくていい」
数十年後に戻れる確証はないし、仮に遠い将来戻れたとしても、自分や娘はその時まで生きていないかもしれない。自分を納得させ、夫三郎さん(81)と同意書に判を押して土地を手放した。
「戻らない」57・7%
新聞やテレビの報道で大熊町の現状を知るたび、複雑な気持ちになる。「町が再生する姿を想像できない」。町内では大川原地区に役場新庁舎が立地し、交流施設が開所した。
一方、町の2月1日現在の住民登録者数は1万153人で、このうち町内居住者は364人。復興庁が2022年2月に公表した住民意向調査では、町内に「戻らないと決めている」との回答が57・7%に上った。
大熊町大川原地区で開庁した町役場新庁舎。開庁式では関係者が完成を祝った=2019年4月
「自分も含め、それぞれが避難先に定着している。戻れない期間が10年以上も続けば、諦めるしかないでしょう」。古里を奪われたまま過ぎていく時間を思うと、やり場のない怒りが込み上げてくる。
共存してきた原発。複雑な思い拭えず
四季折々、さまざまな表情を見せてくれる大熊の自然が好き。庄子さんは、記憶の中の古里に思いをはせる。「当たり前に過ごしていた日々の大切さを、失ってから気付いた」
6人兄弟の末っ子として生まれた。高校を卒業した後、東京都内で就職したため一度は大熊町を離れたが、1968年に帰郷した。
事故を起こす前の東京電力福島第一原発=2004年12月
その3年後の1971年に福島第一原発は営業運転を始めた。「原発のおかげで人や商業施設が増え、町がにぎわっていた」。地域は原発と共存しながら発展していった。その原発が事故を起こし、住民から大切な古里を奪った。複雑な思いが拭えない。
大熊の梨が一番
原発事故の発生前、大熊町の自宅では家族で穏やかな日々を過ごした。早春になると庭に咲く梅の花がお気に入りだった。町西南部に位置する日隠山(ひがくれやま)には山開きの時期に合わせて毎年、家族で登った。春には大川原地区の坂下ダム周辺で咲き誇る桜を見に出掛けた。
近所では町の特産品である梨の生産が盛んだった。秋には豊水や幸水が、たわわに実った。
会津若松市の工房で「あいくー」の制作に励む庄子さん
洋梨も栽培されており、風味豊かなラ・フランスやル レクチエを食べるのが楽しみだった。「大熊の梨が一番おいしい。それが恋しくなるから、他の産地の物は食べないようにしている」
「何も決められない」 国に不信感
現在、大熊町では特定復興再生拠点区域(復興拠点)の整備などが着実に進んでいる。だが、町の姿は自分たちが暮らしていた頃とはかけ離れていると感じる。
春と秋の彼岸には、墓参りのために大熊町に足を運ぶ。その度に変わっていく古里の景色に困惑する。「新しく作り替えられた町を、古里と呼べるのかな」
環境省が2月22日に報道陣に公開した中間貯蔵施設。帰還困難区域外から出た除染廃棄物約1400万立方メートルの搬入は3月末までにおおむね完了する見通し
国が進める復興拠点の整備に違和感を抱く。自宅は今年2月に解体された。中間貯蔵施設には連日、大量の除染廃棄物が運び込まれている。
除染廃棄物は中間貯蔵施設への搬入から30年以内の県外最終処分が法で定められている。2015年3月13日の搬入開始からカウントダウンが始まったが、どこで、どのように最終処分するのか、国の議論は深まらない。
「30年以内の最終処分が現実的とは思えない。搬入開始から7年となる今も、何も決められないのだから」。国の対応に不信感が募る。「時間をかけて更地に戻したとしても、そこは私たちが暮らしていた古里とは違う。あの風景は二度と取り戻せない」
置いてけぼり
原発事故により、町は大きく変容している。将来の姿がどうなっていくのか、思い描くことすらできない。「国は、私たちの思いをくみ取るつもりはないのか。なんだか、置いてけぼりにされているみたい」。苦しくて胸が張り裂けそうになる。
庄子さんは1991年から大熊町で衣料品店「ニットアトリエ庄子」を営んでいた。ニット製品を手掛ける傍ら、町役場生涯学習課に社会教育指導員として勤務し、地域の主婦を対象に裁縫や料理などを指導していた。
原発事故で避難を余儀なくされ、慣れない会津若松市での生活が始まった。仕事もなく、淡々と時間が過ぎていく。生きるとは何か―。自問する日々が続いた。夢中になれることをしようと思い立ち、2012年2月に町内の仲間と会津若松市に工房を開設した。
避難先に新たな居場所
工房開設と同時に、長女ら4人と手芸グループ「會空(あいくう)」を立ち上げた。町のマスコットキャラクター「おおちゃん・くうちゃん」をモデルに型紙を作り、伝統工芸の会津木綿で縫い上げた「あいくー」を展覧会などに出品するうちにファンが増えた。
工房で作業する庄子さん
大手化粧品会社や航空会社とコラボレーションした製品も誕生した。「自分たちの活動を認めてもらえた」。避難先に新たな居場所ができた。
戻らない、忘れたくない 古里の空を思う
あいくーの仲間には淡いピンク色をした「桜しまくま」がいる。庄子さんらが会津木綿を取り寄せている会津若松市の業者に特注した生地「桜しま」を使っている。
会津若松市の工房で「あいくー」の制作に励む庄子さん
ピンク色は大熊町の坂下ダムに咲き誇る桜をイメージした。原発事故で古里を奪われた悲しみは、癒えることはない。
「私たちは大熊に戻らない。でも、忘れたくはないし、多くの人に忘れないでもらいたい」
大熊の空に思いをはせ、今日も針を手に取る。
※この記事は、福島民報によるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。