東日本大震災アーカイブ

今を生きる 踏みだす一歩(19) 園児の笑顔 心の糧

園児と接する喜びをかみしめ、食事の世話をする東ケ崎さん

 「こぼしちゃったね」。優しいまなざしに園児は自然と笑顔になる。「もう1口食べようね」。口元をそっと拭き、スプーンを近づけると、小さな口があーんと開いた。
 浪江町の保育士東ケ崎由紀さん(30)が会津若松市の会津中央病院付属保育園に勤め始めて3週間になる。元気いっぱいの子どもに囲まれ、喜びをかみしめる。「この仕事に再び就けて本当に良かった」
    ◇   ◇
 あの日、勤務先の浪江町立保育園で大きな揺れに襲われた。同僚の保育士と一緒に泣き叫ぶ園児を必死に抱き締め守った。自宅は本棚が倒れる程度で済んだが、翌朝、消防団などの呼び掛けで南相馬市の避難所に移動した。その後、川俣町を経て田村市の親戚宅に身を寄せた。
 何もすることがなく、時間だけが過ぎていく。気が付くと、無邪気な園児の姿を心の中で追い掛けていた。「また仕事をしたい」。思いは日ごとに募った。
 先月初め、短大時代の同級生から連絡が入った。「会津若松市に被災した保育士を採用している保育園がある」。鼓動が高鳴り、体は履歴書を求めて近くのコンビニエンスストアに向かっていた。
 正式な履歴書を書くのは初めてで、緊張のあまり手が震えた。そして、職歴を記す欄でペンが止まった。
 あの時までいつも一緒だった園児、卒園後も遊びに来てくれた子どもたち...。職歴に浪江町の保育園名を記すことで、子どもたちとのつながりが過去のものになってしまいそうな寂しさが込み上げた。みんなが知らないところで1人、職探しをしているような後ろめたさもあった。
 面接前日の4月10日、浪江町で受け持っていた4歳児と会津若松市のスーパーで偶然、再会した。家族と一緒に市内に避難していた園児は「先生、元気だった?僕、幼稚園決まったよ」と、震災前と変わらぬ笑顔で教えてくれた。「こんな小さな子どもでも、強く生きている」。翌日の面接を何の迷いもなく受けられそうな気がした。
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 新天地の保育園では1~2歳児6人を担当している。浪江町の保育園では「ゆきせんせい」で通っていた。ここでは、まだ名前を覚えられない園児から「おねえさん」と呼ばれたりもする。それが少し、くすぐったい。
 地元に戻る日は来るのか、それともこの地で暮らしていくのか、先のことは分からない。たとえ、どんな転機が訪れたとしても、願い続ける。
 「ずっと子どもたちと一緒にいたい。いつか浪江の子どもたちと笑顔で会いたい 」

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