【漁師 浮渡宣夫さん42 (浪江町)】
「残った自分たちが精いっぱい生きる。それがせめてもの供養だよ」。浪江町請戸の漁師浮渡宣夫さん(42)は26日、請戸漁港の近くに設けられた焼香台に花を手向けた。浜風が運ぶ潮の香りが懐かしかった。かつての仲間から励まされたような気がした。
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津波で家も、漁船も失い、町内の施設に避難した。その後、父通正さん(72)と2人で茨城県の妹宅、つくば市の避難所などを転々とし、1カ月ほど前、7カ所目となる猪苗代町のペンションに身を寄せた。
日の出とともに「宝正丸」に乗り込み、午前中、市場に荷を降ろす。2代目として漁に携わって22年になる。何もすることのない避難生活の中で、気がつくと漁船のエンジン音、磯のにおいを追い求めていた。
あの日、相馬双葉漁協請戸支所青壮年部の部員2人が津波にのまれた。町内のスーパーで開いていた魚介類の販売会を地震で中止し、解散した直後のことだった。「津波警報が出ていたのに、なぜ部員をすぐに帰してしまったのか」。部長として仲間を守れなかったことを責め、あの日の海を憎み続けた。
町臨時職員に採用された今月初め、猪苗代町から南相馬市原町区のアパートに移ることを決めた。町民が暮らす川俣町の避難所に通い、食材の買い出しや入浴の準備、通院するお年寄りらの送迎の仕事を始めて2週間が過ぎた。
避難所では、誰もが将来への不安を抱え、つらい気持ちを分かち合っていた。ここで働くことが、今まで支えてくれた人たちへの恩返しになると思っている。
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先月初め、祖母が避難先の栃木県で亡くなった。慰霊には、祖母の遺骨に供えていた花を持参した。慰霊の後、家があった場所に足を運ぶと、持ち帰るものは何1つなかった。家の土台に花を置き、引き返すしかなかった。
大津波に福島第一原発事故。請戸で漁を再開できる日が来るのか、先のことは分からない。例年ならアイナメ漁が最盛期を迎える頃だ。この日の漁港はがれきに埋もれ、壊れた防波堤に波が打ち寄せるだけだった。
請戸にたどり着くまでは、変わり果てた町並みを見るのが怖かった。帰りのバスに乗り込む時は違っていた。
「自分には、ここしかない。どんなに時間がかかっても、いつか必ず船を出す」。強い思いは、海の仲間たちが持ち帰らせてくれたのだと信じている。
(カテゴリー:連載・今を生きる)