【渡部幸悦さん70(大熊町)】
「1日も早く家に向かいたかった」。大熊町の渡部幸悦さん(70)は、会津若松市東山温泉の避難先で29日の一時帰宅が延期されたことを聞き、遠くを見つめた。
家は福島第一原発から9キロほどの場所にある。必要な物を持ち出し、家の様子を確かめる以外にも目的がある。「原発の復旧に当たる人たちのそばに行きたい」。この先の1週間をとても長く感じている。
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昭和52年から約25年間、東京電力の協力会社の社員として福島第1、第二原発で働いた。防護服と線量計を身に着け、作業員の衣服を回収する仕事に携わった。一時帰宅で再び防護服に袖を通す。こんな形で着なければならない現実が切ない。
「原発は安全だ。爆発の心配はない」と会社の上司や東電社員から教えられた。現役の頃も、退職してからも、その言葉をずっと信じていた。
福島第一原発の建屋が爆発したと聞いた瞬間、全身が震えた。「そんなばかな」。その後も事故が続き、信じていたものが崩れた。
原発で地域の暮らしは豊かになった。自分のしてきた仕事に誇りを持って生きてきた。長く生活の糧を与えてくれた原発に、暮らしの場を奪われた。気持ちの整理がつかなかった。
強い揺れで築50年を超える自宅は大きく波打ったが、何とか持ちこたえた。地震後、区長として近くの集会所の鍵を開け、住民に避難を呼び掛けた。妻巻子さん(68)と集会所で一夜を過ごし、翌日、小野町の避難所に移った。4月上旬から今の旅館に身を寄せている。
会津はようやく桜のつぼみが膨らみ始めた頃だった。窓越しの景色は、いつの間にか新緑に変わっていた。「地区のみんなはどうしているだろう」。1人1人の顔が毎日のように浮かんだ。
新聞やテレビは連日、一進一退の原発の様子を伝えている。どこで何が起きているのかが手に取るように分かる。「きっと厳しい環境と闘っている」。作業員の身も案じ続けてきた。
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一時帰宅では、地区民の名簿や区の資料を保存したパソコンを持ち帰る。探している頃、かつて身を置いた職場では、不眠不休の復旧作業が続いているはずだ。
再び家を離れる時、持ち続けてきた気持ちを言葉にしようと思っている。「あなたたちがいるから、古里に戻る希望を失わずにいられる」
(カテゴリー:連載・今を生きる)