東日本大震災アーカイブ

今を生きる 原発事故の現場から(22) 社員の郷土愛胸に

携帯電話で社員の様子を確認する名嘉さん

 「大丈夫か」。東京電力の協力会社・東北エンタープライズ社長の名嘉幸照さん(69)は30代の男性社員の体調を気遣った。福島第一原発での6日間の復旧作業を終え、表情は少しやつれて見えた。
 「また行ってくれるか」。声を掛けると、答えはすぐに返ってきた。「頑張ります」。不安がないはずはない。頭が下がる思いがした。
    ◇   ◇
 震災後、仕事場を富岡町から避難先のいわき市のビジネスホテルに移し、福島第一原発にメンテナンスの技術者を派遣している。社員43人のうち8~9人が6日働き、2日休むローテーションを組む。
 高い放射線量、強い余震...。極限状態の中で、社員は長い時で1日8時間、建屋内にこもり作業した。免震重要棟での食事は菓子パンや缶詰など。夜は座ったまま寝る過酷な現場に大事な社員を送り出すことは、身を切られるようにつらかった。
 当初は福島市や須賀川市などの避難所に車で迎えに行き、原発事故収束に向けた前線基地があるJヴレッジ(楢葉・広野町)に送り届けた。ルームミラーには、遠く離れるまで見送る家族の姿が映っていた。
 帰りの車中、社員はいつの間にか眠り込んでいた。疲れ果てた姿が痛々しく、社員にも、出迎えた家族にも掛ける言葉が見つからなかった。
 世界的な原発メーカーの米国ゼネラル・エレクトロニック(GE)社の社員として昭和40年代後半から約3年間、福島第一原発2号機の建設に携わった。地元の女性と結婚し、昭和55年に富岡町に会社を興した。出身地の沖縄よりも長く暮らし、古里のように感じていた。震災で教えられたのは、それ以上に強い社員の郷土への思いだった。
 全員が南相馬市や浪江町など地元出身者だ。地震、津波、原発事故と大きな災害に見舞われても、会社を去った社員は1人もいなかった。
 古里を愛する気持ちが身に染み、「社員の安全を守ることが自分の使命」との思いを強くした。「防護服や全面マスクを着用していては体力が消耗する」。じめじめとした梅雨を前に、東電に労働環境の改善を訴え続ける。
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 社員と家族のことを思えば、この仕事から撤退した方がいいのか、悩むこともある。
 ある時、社員が語った言葉を胸に刻む。「原発に行くのは恐ろしい。だけど古里は見捨てられない」

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