「3月11日」が普段通りに過ぎていれば、双葉町スポーツ少年野球クラブは、翌日から楢葉町で開かれる南双葉学童野球選手権大会に出場していたはずだった。
震災と原発事故から間もなく5カ月がたつ。「離れ離れになったメンバー33人や、保護者を片時も忘れたことはない」。監督の斎藤恒光さん(60)は、会津若松市で7月に開かれた少年野球大会で選手と撮影した写真を毎日のように見詰める。
■存続か解散か
クラブは昨年10月の東北学童軟式野球新人大会で3位に入賞した。3月に楢葉町で予定された大会は、初めての全国大会出場を目指すシーズンの始まりを意味していた。
双葉町は立ち入り禁止の警戒区域に指定された。一時帰宅は認められても、試合や練習どころか、野球道具さえも満足に運び出せない。クラブは存続と解散のはざまに立たされた。
斎藤さんは震災後、川俣町などの避難所を転々とし、母親と妻との3人で福島市のアパートで暮らす。少年野球の知り合いが監督を務める福島市内のチームで臨時のコーチに誘われた。
同じ年頃の子どもと接すると、自らのクラブの選手を自然と思い出す。チームを編成し直し、公式大会に出たかった。選手も保護者も同じ思いを抱いた。だが、県内外に散り散りになった選手が定期的に集まることは難しい。避難先のチームで活動している選手もいる。公式大会の出場に必要な連盟への登録さえできなかった。
■最初で最後
指導者同士のつながりに助けられ、7月中旬に開かれた会津若松市の少年野球大会に参加を認められた。今シーズンの最初で、最後の大会だった。
試合を終えた翌日。宿泊先のホテルでミーティングを開いた。「また元気な顔を見せてくれ」。斎藤さんは語り掛けた。まぶたに焼き付けようと選手の顔を何度も見回した。
差し出した手を選手は強く握り返す。切なさが込み上げ、言葉が続かない。1人、また1人と親の車に乗って去っていく。車が見えなくなるまで見送った。
来年はクラブ設立の35周年を迎える。「記念大会を開こう。みんなで双葉に帰って...」。斎藤さんは選手の連絡先を書いたメモ帳に目を落とす。「離れていても、いつまでも、この子たちの監督でいよう」と心に決めている。
(カテゴリー:連載・原発大難)