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苦悩する自治体/飯舘村(32) 帰還まで苦闘続く までいな暮らし復活懸け

除染や帰還について村民との共通理解を深めようと村は昨年、各地で懇談会を開いた=伊達市保原市民センター

  「先が見えない」というコメントは93件だった。

 飯舘村が昨年10月に実施した村民アンケートで寄せられた自由意見だ。「早く帰りたい」は45件、「帰りたくない・戻らない」は27件。誰もが不透明な未来に心が揺れている。
 大倉地区に住んでいた中井田兼光さん(50)は12人の大家族だった。今は兼光さんは勤務先がある相馬市、妻冨美子さん(52)と兼光さんの母は山形市、長女めぐみさん(28)は宮城県丸森町、次女は仙台市など5カ所に分かれている。兼光さんは「古里だから帰りたいが、夫婦だけ帰っても子や孫がいないのでは意味がない」と思っている。5カ月の子どもがいるめぐみさんは「子どもに放射能がどう影響するか分からないので帰らない」と明言する。
 村民の避難先は福島市の3750人をトップに、伊達市610人、川俣町510人、相馬市420人など県北地方と相馬地方に約88%が集中している。県外は約570人だけだ。菅野典雄村長は「村の近くに9割近くの村民がいるのは帰還に向けての強み。『戻らない』と言っている若い世代にも村が関わり続けることで、何10年後かに村に戻る動きにつながると思う」と語る。

  一度離れても7割は戻る前例がある。

 村は昨年7月、東京都三宅村と新潟県山古志村(現長岡市)に職員を派遣した。前者は火山の噴火、後者は新潟県中越地震によって全村避難を経験した。両村とも帰還後、人口は3割減った。三宅村を訪問した総務課企画係長の藤井一彦さんは、住民同士の結び付きが次第に途切れること、家に閉じこもりがちになって要介護者が増えることなど避難の長期化による厳しい現実を知った。「大変なことになる」と思った。しかし、「課題を知ってやるべきことも見えた」と気持ちを引き締め直した。
 3割が村を去るなら避難前に約6200人だった村人口は4000人台になる。ここ数年の減少は年間約100人。2000人前後の減少は20年から25年後の姿のはずだったが、それが短期間で表れることになる。
 村が昨年末にまとめた「までいな復興計画」では2~5年後には帰れる場所、帰れる人から帰村を始め、10年後に復興を達成するとした。帰還を目指す人はもちろん、帰れない人ら一人一人に寄り添うとし、村外で新たな生活を始める村民も継続的に支援するとしている。村はそうした村民にどんな支援ができるのか、今後、具体的に示さなければならない。
 被災市町村で多くの退職者が生じている中、飯舘村の退職者はこれまで1人だけ。原発事故直後から、自分のことを後回しにしながら村民のために走り回ってきた。門馬伸市副村長は「放射能が高い場所での勤務もあった。職員に感謝する。誇りに思う」と話す。
 草野地区にいた菅野純子さん(39)は震災後、栃木県鹿沼市に一時避難した際、歯科助手の経験を生かして、お年寄りらの口腔(こうくう)衛生に気を配った。現在は村社会福祉協議会のチーフ生活支援相談員として仮設住宅のお年寄りらを回る。会話の中で、村に帰りたい思いをひしひしと感じる。「避難している皆さんの気持ちを支え、つなぎながら、帰る日まで寄り添いたい」と思っている。
 豊かな里山で築いてきた"までいな暮らし"が自慢の村を復活させられるのか。帰還の日まで、村民の苦闘が続く。(「苦悩する自治体・飯舘村」は終わり)

カテゴリー:連載・原発大難

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