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【「前線基地」の苦悩20】「守り抜く」約束ほご 業務の対象次々拡大

オフサイトセンターの代替施設となっている県庁の正庁。住民支援班などが新設された

 県の防災対策に関わった県職員の1人は、同僚から聞かされた話に耳を疑った。「大熊町のオフサイトセンターが県庁内に移っている」
 東日本大震災が発生してから2週間余りが過ぎた昨年3月下旬。東京電力福島第一原発事故はまだまだ予断を許さない段階だった。
 この職員の脳裏に、国の担当者が自信に満ちた言い回しで語った11年前の言葉が浮かんだ。平成12年ごろ、センター建設に携わる道県の担当者を集めた国の会議だった。
 「原発に万が一の事態が発生した場合、センターはどのように対応するのか」。道県から質問が相次いだ。国の担当者は「応援が来るまでセンターを守り抜きます」とはっきりと答えた。だが、福島第一原発事故で、誓いにも似た約束はあっけなく破られた。
 事故発生から5日目でセンターは県庁本庁舎への移転を余儀なくされた。当時の会議を思い起こした職員は、国の作業服を着て県庁内を歩く職員の背中を見つめ、心の中でつぶやいた。「なぜ、こんなに早くセンターを移したのか」

■機器そろわず
 政府の原子力災害現地対策本部広報班長の木野正登(43)は、事故発生から8日後の3月19日、県庁内のセンターに着任した。
 だが、大熊町のセンターに置かれていた原子力災害用の機器は県庁にそろっていなかった。放射性物質の大気中の濃度や被ばく線量などを予測する緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI・スピーディ)、事故の進展をコンピューターで解析・予測する緊急時対策支援システム(ERSS)...。「こんなにも何もない場所で対応しているのか」。木野は、国や県の職員が慌ただしく動き回る部屋で困惑した。
 木野は東京大工学部原子力工学科を卒業後、通商産業省(現経済産業省)に入省した。新潟県の東電柏崎刈羽原発の近くに設置された原子力保安検査官事務所の所長などを務めた。全国各地にあるセンターの大半を見ていた。大熊町のセンターにも3年ほど前の防災訓練の際に訪れた。
 事故発生時は経済産業省原子力安全・保安院で電気やガス、鉱山などの事故を担当する産業保安監督部に勤務していた。
 木野は「センターの電源がまったく使えないということは考えたことがなかった」と振り返る。「原子力を学んだ1人として福島の現状を何とかしたい」と責任を感じている。着任から1年となる今も福島市内の旅館から出勤し、県庁や県災害対策本部がある県自治会館を行き来する。

■存在意義
 福島第一原発事故で想定通りに機能しなかったのはセンターの設備だけではなかった。
 原子力災害対策特措法に基づく運営要領も事故の現実にそぐわなかった。運営要領には現地対策本部の組織として、総括、広報、プラント、放射線、医療、住民安全、運営支援の7班をセンターに設けることを記している。
 しかし、県内はもちろん全国の都道府県に広がった避難者の生活を支える「住民支援班」、放射性物質の除染を担当する「除染推進チーム」、警戒区域内への一時的な立ち入りを認める「公益一時立ち入りチーム」を相次いで設けた。さらに警戒区域内の火災発生に備えて「火災対応プロジェクトチーム」も昨年12月に加えた。
 避難区域の拡大、避難生活の長期化、広い範囲の除染...。想定さえしていなかった事態が起きるたびに、センターは運営要領に書かれていない業務を迫られた。今も平均で100人の職員が県庁内のセンターを中心に活動している。
 県災害対策本部に詰める県職員や、原子力防災を担当した県職員OBは今、同じような疑問を抱き続けている。「オフサイトセンターとは果たして、何だったのか」。(文中敬称略)

 =第5部「『前線基地』の苦悩」は終わります=

カテゴリー:3.11大震災・福島と原発

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