東京電力福島第一原発事故で、南相馬市で設定されていた警戒区域と計画的避難区域が解除された16日、同市小高区などの住民の多くが自宅に自由に戻れるようになり、片付けなどに追われた。ただ、道路や水道などのインフラ復旧や除染は進んでいない。以前のような生活にはいつ戻れるのか-。自宅に戻れた喜びと不安が交錯した。
東日本大震災で多くの家屋や商店が崩壊したり、傾いたりしたままになっている同市小高区の商店街。道路上には砂がたまり、液状化現象による路面陥没箇所も見られる。戻った住民が路上の土砂を熱心にかき集めていた。
「まるで時が止まったようだ」。区中心部で建具店を営む吉田正夫さん(74)は、作業場に入ると、震災で大きく崩れた材木の後片付けを始めた。
江戸時代から続く老舗の6代目だ。待ち望んだ再開への一歩だが、不安は尽きない。得意先の家の多くが津波で流された。インフラが十分に復旧していない中、今後の地域住民の帰還が進むかは不透明だ。ただ、苦境に立つ古里を支えたいという思いは強い。「震災で小高区の建具店はほとんどなくなった。できるだけ早く仕事を始めたい。丈夫な間は続ける」と黙々と手を動かした。
JR小高駅前で40年間、釣具店を営んできた新開喬さん(74)は、海岸から約3キロ離れた店内まで津波が入り込み、砂で入り口の引き戸がなかなか開かなかった。床には釣りざおや疑似餌が散乱していた。空き巣の被害にも遭っていた。「水も電気も使えない。しばらく誰も戻れないのでは」。サッシの砂をブラシで掃き出しながらつぶやいた。
海から100メートル程しか離れていない沿岸部。田畑まで流された車両が震災直後のまま放置され、津波にさらわれた住宅の土台だけが残っていた。「優しい子で...。やっぱりまだ信じたくないんだよね」。貝塚マスヨさん(72)は、津波で土台だけになった自宅跡で、孫の晃太君=当時(15)=への思いを口にした。
小高中の卒業式を終えたばかりの晃太君が卒業証書を手に近所の友人宅に集まっていた時に地震が起きた。家族を心配して自宅に向かったまま、行方が分からない。
サッカーが大好きだった晃太君は強豪・富岡高に進学する予定だった。「早く見つかるようにってご先祖さんにお願いした。自由に入れるようになったから、これから何度も通うことになるね」。マスヨさんは墓石が倒れたままになっている墓に花を手向けた。
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