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(27) 命の重さ 弔慰金 苦悩する遺族 避難「間違っていたか」 自責の念日に日に強く

山木屋で生活していたころの義亥さんとマチさん

 川俣町山木屋の無職渡辺彦巳(ひこみ)さん(60)は、衰弱していく父義亥(よしい)さん=当時(87)=を車に乗せ、埼玉県草加市の入院先から約200キロ離れた自宅に戻った。東京電力福島第一原発事故から約半月が経過した平成23年4月2日だった。「着いたよ。山木屋だ」。元気のない父に語り掛けた。
 翌日、義亥さんの容態が悪化する。彦巳さんは、町内の内科医に電話をかけた。「親父の具合が悪いんだ。診てもらえないか」。田畑に囲まれた築30年の1軒屋。黄色味がかった蛍光灯の下で、寝たきりの義亥さんが苦しそうに息をしていた。翌朝の受診を約束し、受話器を置いた。「明日、先生に診てもらえるからな。少しの辛抱だよ」
 4日朝、義亥さんは布団に横たわったまま、動かなかった。手を差し伸べると、体はすでに冷たい。脈はなかった。
 義亥さんは山木屋でタバコや水稲、野菜を栽培する農家だった。体は人一倍丈夫で大病を患ったことはなかった。しかし、原発事故後に避難した草加市の娘の家で体調を崩し、入院した。
 原発事故への恐怖、慣れない長距離の移動、入院によるストレスと疲労が、心身をむしばんだ。当時、山木屋には避難区域が設定されていなかった。彦巳さんの心の奥で複雑な思いが交じり合う。「避難は間違っていたのか。親父の死期を早めてしまったのではないか」
 原発事故前にわずかにあった認知症も、入院先で急激に悪化した。ベッドの上で無意識に手足をばたつかせ、体をかきむしった。周囲の目が届かない夜間などはやむなく両腕を手すりに縛り付けるしかなかった。
 息を引き取った義亥さんの傍らに座り、ぼうぜんとしていると、しばらくして窓越しに警察車両が停車するのが見えた。福島署川俣分庁舎による検死。義亥さんの体を見て、医者はいぶかしそうに聞いた。「このあざは、どうしたの」。手首は、ひもが食い込んだため赤黒くなっていた。「つらかっただろう、苦しかっただろう。避難さえしなければ...」。日に日に自責の念が強くなった。
 山木屋はこのころ、住民の流出が続いていた。原発事故当時、福島第一原発から北西に向けて風が吹いていた。放射性物質の拡散を示す帯は政府が屋内退避を指示した原発30キロ圏を超え、川俣町にも及んだ。
 義亥さんの死からわずか18日後の4月22日、山木屋は放射線量が比較的高いため計画的避難区域となり、程なく誰一人いなくなった。彦巳さんも慌ただしく避難先を決め、5月28日、福島市に移り住んだ。母のマチさん=当時(84)=を町内の介護施設に預けた。施設には山木屋のお年寄りも多く、夫を失った悲しみが少しは癒えると考えた。
 借り上げ住宅として入居した福島市のマンション。遺影に手を合わせ、こうつぶやいた。「やっぱり山木屋は避難区域になったよ。あの時、逃げたのは仕方なかったんだ」
 7月中旬、川俣町役場に彦巳さんの姿があった。原発周辺の町村を中心に、避難中の死を震災関連死に認定し、弔慰金の申し出を受け付ける動きが出始めていた。

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