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家業の木工所守る 名工の妻、周囲に気遣い

■いわき市平薄磯 政井照子さん(74)

 太平洋を臨むいわき市薄磯地区で生まれ育った。「先祖代々の実家を守って一生を終えるの」と折に触れて話していた。穏やかな波の音がいつも家族を包み込んだ。しかし3年前の3月、突如荒々しく姿を変えた海が照子さんの命を奪った。
 24歳の時、青森県東通村出身の寛明さんと結婚した。寛明さんは建具の技術を独学で身に付け、昭和42年に照子さんの実家で木工所を始めた。53年、自宅から車で約25分離れた、いわき市常磐三沢町に家具製造販売店「マサイ」を創立。照子さんは寛明さんが仕事の日も休みの日も、いつも一緒だった。3人の子どもに恵まれた。
 平成14年、寛明さんは全国の建具職人が技術を競う「第36回全国建具展示会」で、最高賞に次ぐ厚生労働大臣賞を受ける。15年には、ものづくりで国内最高水準の技を持つ匠(たくみ)をたたえる「現代の名工」に選ばれた。照子さんは自分のことのように喜んだ。同年11月に東京都で行われた表彰式には夫婦で出席した。
 喜びもつかの間、寛明さんが17年3月に心不全で急逝する。両親の背中を見て育った長男秀康さん(42)が会社を継ぎ、次女朋子さん(46)も手伝った。照子さんは「電話番だけでもいいから手伝わせて」と2人に頼んだ。100歳に近い母クマさんを介護しながら毎日会社に足を運んだ。朋子さんは、家族を気遣う照子さんの姿をまぶたに焼き付けている。「『これが私のお母さんなんだよ』って、周囲に自慢して回りたいほど大好きだった」
 照子さんは調理師の腕を生かし、栄養バランスが取れた手料理を振る舞った。家族の健康と好みを考え、1人1人違ったメニューを準備した。夜遅く帰宅する秀康さんと朋子さんのため、食事をする台所を暖かくし、夕食を用意して待っていた。朋子さんが「待っていなくていいのに」と言うと「テレビを見ているだけだから」とほほ笑んだ。地域の人からも頼りにされた。名前の通り、周囲の人を明るく照らす存在だった。
 震災当日、照子さんはクマさんを親戚宅に預け、自宅で休んでいたとみられている。会社にいた秀康さんと朋子さんは揺れが収まると急いで自宅に電話を入れた。しかし電話はつながらなかった。薄磯地区に戻ると、民家が立ち並ぶ街並みは一変し、自宅は跡形もなく流されていた。避難所や病院をくまなく回り、秀康さんは海岸沿いを何キロも歩いて捜した。
 震災発生から13日目。消防団員が自宅から約300メートル内陸に離れた修徳院の前で照子さんを見つけた。震災直後、海岸沿いで海の様子を見る照子さんの姿を近所の人が目撃している。周囲にいた子どもに「津波が来るから早く逃げて」と呼び掛けていたという。
 照子さんは普段から、揺れを感じると誰よりも真っ先に家を飛び出し、高台に避難していた。朋子さんは「もう少し早く避難していたら津波から助かったのでは」と考える。団員からは「(照子さんは)きれいで穏やかな顔でした」と言われた。首にはスカーフを巻いていた。おしゃれ好きだった照子さんらしい姿だった。
 秀康さんと朋子さんは市内の別の親戚宅に一時身を寄せた後、会社で避難生活を送っている。一時は廃業も考えたが、親族や取引先から励ましを受け、父母が残した会社を守り抜こうと決意した。
 うれしい出来事があった。昨年12月上旬、クマさんが100歳を迎えた。震災後、遠くを見ながら「薄磯も照子も流されちゃったのか」とつぶやいたことがある。困難を乗り越えての節目に、朋子さんらは涙を浮かべた。「母がおばあちゃんを助けてくれたんだ」と感じている。
 朋子さんは震災後、赤紫色の軽自動車を購入した。照子さんが生前、好んで身に付けていた色だ。「母に見守られている気がする」。会社の社長室には照子さんと寛明さんの遺影が一緒に並べられ、家族と社業を見守っている。

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