東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県南三陸町は、復興に向けて歩みを進め、教訓継承に力を入れている。復興を象徴するように、町内には新しい住居や公共施設、道路が建てられた。震災遺構の旧町防災対策庁舎は津波の威力を伝え続ける。震災発生から3月11日で丸12年。全国各地から若手記者が集った研修講座に参加し、三陸海岸南部の町を取材した。(福島民報社報道部・長野野々香)
仙台市から南三陸町に向かう途中、車窓越しに複数の津波避難タワーが目に入り、日々の暮らしに防災対策が根づいているのを感じた。昨年10月には震災伝承施設「南三陸311メモリアル」がオープンした。隣接する南三陸さんさん商店街とともに、地域の被災状況や復興の様子を発信する拠点となっている。
「南三陸の力になりたい」。沿岸部の歌津地区で自宅が津波被害に遭った後、内陸側の町内入谷地区で新規就農した大沼ほのかさん(24)は町ポータルセンターで取材に答え、地域の活性化に携わっていく決意を口にした。
震災が起きたのは小学6年の時。避難した先の北海道で、父親は農業を学んだ。中学3年で南三陸町に戻り、気仙沼高に進学。家業の養鶏場を手伝うため、名取市の宮城県農業大学校で学んだ。
在学中に訪れた入谷地区は、内陸側にある盆地で、津波の被害を受けなかった。田園地帯が広がる景色に、かつての歌津地区への思いを重ねた。かさ上げや防潮堤の建設で変化した海沿いの町並みに寂しさを感じていた。「入谷地区の景色を守りたい」。大沼さんは農家として生きていく道を選んだ。
当初、新規就農と震災が結びつけられるのを懸念し、報道取材に対して自身の経験を話すのをためらっていた。しかし、入谷地区の住民との交流を通して震災を知らない世代に伝えたいという思いを強くし、取材を受けるようになった。
現在はキッチンカーでクレープを販売しながらモモ、クリ、ブルーベリーなどを栽培、販売している。将来的には農園直営のカフェを開きたいと夢を描き、「南三陸町の魅力を多くの人に知ってほしい」と決意を新たにしている。
12年前に津波が押し寄せた時、民間の式典場「高野会館」の屋上に避難して助かった南三陸シルバー人材センター事務局長の佐々木真さん(51)は「いまだに心のもやもやは晴れない」と語る。
津波で自宅を流されたが、震災後2カ月で営んでいた居酒屋を再スタートさせた。避難生活で心身ともに疲弊していた町民をもてなしたいとの思いが原動力だった。亡くなった友を思い出すたび、今でも複雑な思いが胸をよぎるという。「ハード面の復興は進んでいるが、心の復興はできていない」と吐露した。
震災後、他の地域からの移住者や観光客を積極的に受け入れるようになり、町は前を向いて歩みを続ける。一方で、復興事業で公園や防潮堤などが整い、慣れ親しんだかつての街並みとは一変した側面もある。東京電力福島第1原発事故で避難を余儀なくされた双葉郡と比べて環境整備は進んでいるが、人々の内面的な復興は、今なお途上にあると感じた。南三陸町を元気にしようと躍動する町民の姿に、福島県内の被災地で地域のために力を尽くす住民の姿が重なった。いまだ複雑な思いを抱えたままの住民が心の底から復興したと思える日が来るのを願い、これからも被災地の今を発信し続けていきたい。
■JOD若手記者研修講座が初開催 宮城県南三陸町など取材
福島民報社などが加盟する「オンデマンド調査報道(JOD)パートナーシップ」の「東日本大震災『#311jp』記者講座@南三陸」は7~9日に開かれ、宮城県南三陸町や仙台市を訪れた。
震災後に入社した若手記者の研修の場として、被災地での取材を通した教訓継承、同世代との交流などを目的に初めて企画された。福島民報社など全国18社から約30人が参加した。
※南三陸町 宮城県北東部の沿岸にあり、広さは163・4平方㌔㍍。1月末現在の人口は1万1956人。2011(平成23)年3月11日の東日本大震災では震度6弱を観測し、20㍍を超える津波が襲来した。震災関連死を含めて死者620人、行方不明者211人の被害があった。