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【戻せ恵みの森に ―原発事故の断面―】第6部 文化(47) 炭焼きの伝統衰退 かつて生産量日本一

2022.06.01 09:29

 川内村には大正時代から、豊かな森林資源を生かした炭焼きの伝統が根付いていた。昭和初期に木炭の生産量が日本一になるなど一時代を築いた。東京電力福島第一原発事故で一時全村避難するなどの影響で担い手がいなくなり、炭焼き文化が衰退した。

 一九一七(大正六)年、磐越東線が全線開通し、隣接するいわき市と田村市に駅ができた。郡山市やいわき市への運搬が容易になり、木炭の原料となるナラやクヌギが自生していた川内村や周辺で木炭作りが盛んになった。豊富な材料や運搬のしやすさに目を付け移住してくる人も増えた。村内の炭窯で焼いた木炭が全国各地に行き渡るようになった。

 一九三四(昭和九)年、県による村内の木炭の検査量は約七千二百四十六㌧に上り、有数の産地に成長した。一九六〇年、村ゆかりの詩人草野心平を名誉村民に推挙し、村が木炭百俵(約一・五㌧)を贈った逸話もあり、長年、村の代表的な産品だった。

 炭焼きは産業としてだけでなく、住民の生活に身近なものだった。村内の農業秋元美誉(よしたか)さん(78)は「一九六〇年ごろまで、ほとんどの農家が自宅で使うための炭を作っていた」と話す。

 当時は木炭を主にこたつの燃料として使っていた。米の収穫を終え、冬にさしかかる十一月ごろになると、山で木を伐採し、近くに建てた炭窯で焼いて木炭を作ったという。秋元さんは「たくさんの山から煙が上がり、炭の香りが村中に漂っていた」と振り返る。

 木炭や建築材の出荷で村の経済は活性化したが、石油や電力へのエネルギー転換を機に需要は減少した。一部の住民が技術を継承していたが、原発事故が追い打ちをかけた。森や山の放射線量が高くなり、原料の木を伐採できなくなった。

 村には一時、居住制限区域などが設定されたが、二〇一六(平成二十八)年に全ての避難区域が解除された。原発事故発生前まで、村産の木炭を魚の調理などに使用していた観光施設「いわなの郷」の総支配人渡辺秀朗さん(71)は「山の放射線量が高くなったことで、作る人がほとんどいなくなった。村の特産だったが、今は村外の炭を使わざるを得ない」と肩を落とす。

 原発事故発生後に炭焼きを再開した住民もいたが、風評被害への不安などから、いずれも長続きしなかった。