買い物客でにぎわう師走の東京。百貨店に会津産の日本酒や漆器、陶器が並ぶ。現在、そうした品々の運搬のほとんどを車が担うが、かつては鉄道の重要な役目だった。
徒歩で1週間程度かかっていた会津から東京までの道のりは、鉄道の開通で約10時間に縮まり、物流は劇的に変化した。磐越西線は会津と東京を結ぶ重要路線として、販路を全国に広げる大動脈となった。岩越線の名で、郡山-新津駅(新潟市)間が全線開通した1914(大正3)年には現在の会津若松市で祝賀行事が盛大に催され、市を挙げて近代化の幕開けを祝った。
「焼け野原となった戊辰戦争から会津が復活するため、必要不可欠な路線だった」。会津若松市の末廣酒造社長の新城猪之吉さん(72)は言葉に力を込める。
1850(嘉永3)年創業の末廣酒造は、1868(明治元)年の戊辰戦争で蔵を焼失したが、翌年に酒造業を再開。会津街道や奥州街道が交わる一大流通拠点として「花の本宮」と言われた現在の本宮市に支店を設けた。日本鉄道奥州線(現JR東北線)が通る前年の1886年のことだ。鉄道網の発達を見据えた判断だった。
磐越西線(当時・岩越線)全線開通の年には、若松駅近くに酒蔵を建設。駅から引き込み線が引かれ、酒が次々と貨車に積み込まれた。
「鉄道の開通と販路開拓は、酒の質の向上にも貢献したんだ」。新城さんが歴史をひもとくように語る。
明治初期ごろまでの会津の酒は決して質が高いとは言えなかったという。路線開通を機に一大消費地・東京に販路を広げるため、選ばれる酒づくりへの機運が高まった。酒どころの先進地から杜氏(とうじ)を招くなどして改良を重ねた。いくつもの酒蔵が次々と貨車に酒瓶を積み込むようになった。
県統計書によると、明治後期に年間約1300トンだった若松駅からの日本酒の発送量は、約20年後の大正後期には4千トン近くに上った。地元消費が中心だった会津産の地酒は磐越西線を通じ、販路を確実に広げていった。
地域の発展をけん引した貨物輸送は、時代の流れとともにトラックに取って代わり、磐越西線での定期運行は2007(平成19)年3月に終了した。だが、そのわずか4年後に東日本を襲った未曽有の大災害。磐越西線は幹線として、再び大きな力を発揮する。