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【鉄路と生きる(13)】第2部 常磐線 近代化の原動力に 石炭を供給 沿線に街

2023.01.03 09:51
昭和20年代の綴駅(現内郷駅)構内。多くの側線や石炭を積んだ貨車が見える(いわき市提供)

 JR常磐線は太平洋沿岸などを走り、300キロを超える鉄路で首都圏と東北南部をつなぐ。明治から続く大動脈は東日本大震災、東京電力福島第1原発事故によって一時絶たれたが、9年の歳月を経て全線が復活した。エネルギー供給、観光、そして復興へ。苦難を乗り越えながら、走り続ける。

 「いち、に、さん、し…」。黒煙を吐きながら走る蒸気機関車の後方に連なる貨車の数は、無限に続くようだった。「子どもの頃、学校帰りによく数えたもんだよ。50車両以上はあったなあ」。いわき市で炭田史などを研究する元市職員の小宅幸一さん(71)は昭和30年代の風景を思い出す。「この路線は、まさに日本の近代化を支える原動力だった」

 かつて浜通りから茨城県にかけて広がっていた常磐炭田は多くの石炭が採れた。ただ、首都圏に輸送する手段は明治後期まで不安定な海路に頼らざるを得ず、開発は思うように進まなかった。

 鉄路の敷設が、状況を一変させる。実業家・渋沢栄一が磐城炭鉱社を設立し、常磐炭田の石炭を輸送するための鉄道の必要性を主張。国を挙げて日本鉄道海岸線(現JR常磐線)の建設が進んだ。1897(明治30)年、水戸(茨城県)-平(いわき市)駅間が開通。翌年、上野駅(東京都)から岩沼駅(宮城県)までが全通した。安定した輸送路の確保により炭田は発展し、本州最大規模を誇るまでになった。

 開通に伴い駅が次々と整備された。いわき市の現在の勿来や湯本、内郷、いわきの各駅は1897年に誕生した。双葉郡でも現在の木戸や富岡、双葉の各駅が1898年に開業し、大量の木材が運び出された。駅を中心に街が形成された。

 炭鉱産業は第1次世界大戦後に黄金期を迎え、ピーク時の昭和20~30年代初頭にかけて常磐炭田は、全国の約1割に匹敵する年間約400万トンの出炭量を誇った。1933(昭和8)年には常磐線の綴(つづら)駅(現内郷駅)が貨物取扱量で日本一になった。石炭を運ぶための鉱山鉄道が駅から鉱山に向けて延び、駅構内にも貨車が使用する側線がいくつも敷かれた。

 太平洋戦争後も鉄道や重工業には石炭が欠かせず、生産は活発だった。常磐炭田の労働者も昭和20年代には3万人を数えた。「鉱山鉄道から常磐線の貨車に石炭を移し替える時に、いくらかこぼれ落ちる。お風呂を沸かす燃料にちょうど良いから、集めてる家庭もあったよ」。小宅さんは懐かしむ。「黒いダイヤ」は暮らしに密着していた。

 鉄道車両の整備など鉄道関連産業も根付いた。常磐線沿線には労働者の住まいや会社の宿舎、飲食店が立ち並び、にぎわった。

 だが、石油が普及し始め、石炭の時代は終焉(しゅうえん)を迎える。1976年、いわき市内の最後の炭鉱が閉山した。浜通りに繁栄をもたらした鉄路によって、皮肉にも労働力は首都圏や北へと流れ、沿線地域は人口減少に見舞われた。

 小宅さんは言う。「良くも悪くも石炭が地域を大きく変えた。その土台には鉄道の存在がある。浜通りの生活は、常磐線と切っても切れない縁なんだ」

 炭鉱産業の衰退を受け、常磐線を活用した観光産業に活路を求める動きが広がった。


■JR常磐線

 日暮里(東京都)-岩沼(宮城県)駅間の全80駅343・7キロ。1889(明治22)年1月に水戸鉄道として現在の茨城県の友部-水戸駅間が開通し、水戸駅を起点に南北に延伸した。国有化に伴い1909年に「常磐線」と改称。2011(平成23)年の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で県内の全区間が不通になったが、段階的に再開を進め、2020(令和2)年3月に最後の不通区間の富岡-浪江駅間が開通して9年ぶりに全線で運転を再開した。