2011(平成23)年3月11日。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故という未曽有の複合災害が、JR常磐線を襲った。無残な姿となった鉄路に、住民や関係者は途方に暮れた。浜の生活と経済を支えてきた重要な交通網が奪われた。
相馬市の女性(34)は震災当日、仙台方面から相馬駅に向かう上り列車に乗っていた。当時22歳。宮城県の大学に通い、卒業旅行から帰宅する途中だった。午後2時46分-。新地駅に到着するとほぼ同時に、経験のない揺れに見舞われた。
車両が上下左右に激しく揺さぶられる。鈍い金属音を響かせ、車体がきしむ。車内から降りようとしたが、立っていられない。とっさに手すりにしがみついた。乗客の悲鳴が響く。「異常な災害」だと感じた。
「岩手県に津波が来るみたい」。乗客の声が耳に入った。新地駅から海までは500メートルほどしか離れていない。「こっちにも来るかもしれない」。万が一に備えて電車から降り、駅から西に約1・5キロ先の新地町役場に歩いて避難した。数人が行動を共にし、後からも乗客が続いた。
到着しておよそ5分後だった。「津波、津波」。駅の方角を指さし1人が悲鳴を上げた。遠く離れた先に、数メートルの高さの「黒い壁」が見えた。「逃げろ!」。大声が響く。役場前にあった高台の建物に急いで向かった。あの時の足音や息遣いが忘れられない。「とにかく必死だった」
その日の夕方、家族と連絡が付き、車でその場を離れた。恐怖の余り、駅周辺の町並みを見ずに帰宅した。数日後、ニュースで新地駅の被害を知った。津波で駅舎が流失。線路はくの字型に曲がり、列車は転覆して大破していた。「この世の光景とは思えなかった。電車が駅に着いていなかったら、逃げられなかったかもしれない」
女性は震災前から通学で毎日のように相馬-仙台駅間を利用していた。相馬市民にとって通勤・通学、買い物などで仙台方面への利用は多い。「列車は生活に欠かせない」。不通が続き、鉄路の重要さを実感した。新地駅を含む相馬-浜吉田(宮城県亘理町)駅間が2016年12月に再開通した。鉄路がつながった初日、女性は「いつも通り」、友人に会いに仙台駅まで利用した。「日常が戻ってきた」。あの日のうれしさが心に残る。
ただ、複雑な思いも抱く。新地町は津波で全面積の5分の1が浸水。直接死と関連死合わせて119人(昨年11月1日現在)が命を落とした。「駅で亡くなった人もいるはず」。自らも犠牲になっていたかもしれないあの場所で、悲しみに暮れた人がいる|。現在も頻繁に利用するが、新地駅を通る度に追悼の思いがこみ上がる。「今の日常を送れるのは当たり前ではない。感謝の気持ちを持ちながら、今後も列車を使っていきたい」
津波、原発事故で一時は県内全区間が不通になった常磐線は、駅の補修や線路復旧、除染によって段階的に不通を解消。2020(令和2)年3月、約9年ぶりに全線再開通を果たした。