地下資源に恵まれた石川町には、かつて一大産地として栄えた鉱山や坑道が静かに眠る。地元の資料館が面影を今に伝える。大型連休中、新緑よりも石を目当てに専門家や愛好家が足を運ぶ。
1934(昭和9)年12月に全線開通した水郡線は常磐線水戸駅経由で首都圏と通じ、沿線地域から鉱石や木材などの資源を大都市に運ぶ役割を果たした。中でも良質な鉱石を産出した石川地方はその恩恵を受けた。
「駅には石を列車に運び込む引き込み線があった。まちは活気づいていたよ」。石川町史の編集などに携わった町内の郷土史研究家、小豆畑毅さん(81)は子どもの頃に見た光景を思い返す。
野木沢村(現石川町)では明治期から、焼き物のうわぐすりやガラスの原料となる長石、珪石(けいせき)が盛んに採れた。水郡線開通前は、鉱石を保管する貯鉱場から馬車で東北線の須賀川駅や矢吹駅まで石を運んでいた。
鉄路の敷設が状況を大きく変える。笹原村(現塙町)出身の事業家で政治家でもあった白石禎美が明治末期から、現在の県南地方と茨城県北部を結ぶ鉄道の新設を唱える。紆余(うよ)曲折を経て1921(大正10)年に路線の南北双方から工事が始まった。1934年、磐城棚倉(棚倉町)―川東(須賀川市)駅間が開通し水郡線が全通した。
全線開通に合わせて鉱山に近い野木沢駅や磐城石川駅が開業した。鉄路は鉱山の開発を加速させ、貨物列車が鉱石を運び出した。多い時で1両に15トンほどの鉱石を積んだ列車が1日に何本も運行された。駅構内に貯鉱場や選鉱場が設けられ、当時の様子を伝える資料には出荷を待つ石の山が写し出されている。
駅周辺には採掘に携わる業者や作業員、投資家が全国から集まった。沿線の東白川、石川両地方は林業も盛んで、良質の木材を産出した。駅を中心に今につながるまちが形成されていった。
貨物の輸送手段は1950年代後半ごろからトラックに代わる。石の採掘は1970年代前半まで続いた。安価で良質な鉱石が輸入されるようになり、100カ所近くあった鉱山は全て閉鎖された。水郡線の貨物輸送は1987年に終了した。
各駅にあった鉱石運搬の引き込み線は姿を消し、輸送でにぎわった当時の名残はない。小豆畑さんは語る。「それでも水郡線のおかけで、石川地方をはじめとする沿線地域の産業活性化、まちの発展が進んだのは間違いない」
沿線に産業の発展と活気をもたらした水郡線。利用者が減る中、駅を地域のシンボルとして存続させ、鉄路の維持へと奮闘する人々がいる。