青々とした山あいを縫い、雄大な渓谷に架かるいくつもの鉄橋を渡る。日本の原風景が広がる「秘境路線」として名高いJR只見線は、週末ともなると、旅行者や鉄道ファンが多く利用する。
12年前の夏。新潟・福島豪雨で被災し、一部区間が長期にわたり不通となった。過疎化などの影響で乗客数は減少していたが、路線は通学や豪雪地帯の冬の移動に欠かせず、観光誘客の一端も担っていた。何としても、鉄路として全線をつなぐ―。復活を可能にしたのは、住民や関係者の熱い思いだった。
「只見川が異常に増水している」。2011(平成23)年7月29日午後、福島県金山町役場に町民や職員から次々と連絡が入った。雨は27日から降り続いていた。当時副町長で現町長の押部源二郎さん(73)は、庁舎に打ち付ける激しい雨音に危機感を募らせた。
見回り中の職員から被害状況が次々と飛び込む。住宅浸水、停電…。冠水で道路網が寸断され、巡回先から役場に戻れない職員もいた。福島地方気象台から、今後も猛烈な雨が続くと連絡が入っていた。「経験のない災害が起きている」。不安と緊張の中、不眠不休で町災害対策本部の指揮を執った。
31日未明、只見線の橋りょうが流されたようだと一報が入った。半信半疑のまま、自ら足を運んだ只見川で、その光景にがく然とした。
「橋が消えている」
町内の会津川口―会津大塩駅間にある第5~7橋りょうが流されていた。あんな所まで水位が上がっていたのか―。子どもの頃から親しんだ鉄路の無残な姿に、言葉を失った。
だが、意気消沈している暇はなかった。列車を使う高校生、高齢者らから問い合わせや不安の声が届いていた。「元に戻さなければという思いしかなかった」。長い道のりになるであろう復旧と、向き合う覚悟を決めた。
不通区間となった会津川口―只見駅間。只見町側も、復旧への思いは同じだった。通学や通院に必要な上、観光路線としての魅力があった。「バスではなく、鉄道で再開させなければいけないという機運が全町的に高まった」。当時の町商工会事務局長で現会長の目黒長一郎さん(74)は言葉に力を込める。
翌年5月から町商工会が事務局となり、早期復旧を求める署名活動を始めた。町民約3300人分の署名と要望書をJR東日本と国、県に提出した。目黒さんは上京する際、署名をかばんに入れて運んだ。ずっしりとしたかばんの重さが、今も手の感触に残る。「町民の切実な思いが詰まっていた」
だが、路線はもともと赤字を抱え、復旧には多額の費用が必要とされた。JR東はバス運行への転換を視野に入れていた。鉄路で再びつなぐには、越えなくてはならない壁がいくつもあった。
※JR只見線 会津若松―小出(新潟県魚沼市)駅間の全36駅135.2キロの地方交通線。福島県側は会津線として1926(大正15)年10月に会津若松―会津坂下駅間、新潟県側は只見線として1942(昭和17)年11月に小出―大白川(魚沼市)駅間が開業した。田子倉ダム(只見町)建設の貨物専用線の編入などを経て1971年8月に只見線として全線開通した。2011(平成23)年7月の新潟・福島豪雨で被災。不通区間となった会津川口(金山町)―只見駅間が2022(令和4)年10月1日に運転を再開し、約11年ぶりに全線再開通した。