阿武隈川に沿うように列車が走る。モモ畑や水田、住宅街の景色が車窓に流れる。第三セクター鉄道・阿武隈急行線は今夏、福島―槻木(宮城県柴田町)駅間の全線開通から丸35年を迎えた。度重なる自然災害やコロナ禍の影響で厳しい運営が続くが、今も沿線の生活を支え続けている。
前身・国鉄丸森線(宮城県柴田町―丸森町)は福島県側への延伸が頓挫したまま国鉄改革で廃止対象となった。「諦めるわけにはいかない」。両県を結ぶ鉄路を実現したのは、先人の願いを成就しようとする熱意だった。
国鉄の再建が叫ばれていた1981(昭和56)年4月。沿線の宮城県角田市の庁内に丸森線特別対策室が発足した。路線は赤字を抱え、存続が危ぶまれていた。当時30代だった玉手富士夫さん(80)ら職員2人が専属となった。「市長から『何でもやれ。責任は俺が持つ』とハッパをかけられた」。連日街頭で市民に乗車を呼びかけた。職員にも出張での利用を促した。広報を作り、市内中に配った。「頑張れよ」。励ましの声が届いた。
「諦められるわけがなかった。福島まで結ぶことが、先人の願いだったんだから」。自ら記した丸森線や阿武隈急行線の歴史を伝える本を手に、玉手さんが力を込める。
明治時代、今や大動脈となったJR東北線の前身・日本鉄道奥州線が現在の阿武隈急行線の経路を通る計画があった。だが、養蚕が盛んだった一帯から「蚕の餌になる桑の葉が汽車の煙で枯れる」などと反対の声が上がり、見送られた。裏腹に、奥州線が通った地域は鉄道を軸に発展した。戦後、福島、宮城両県で丸森線を誘致する運動が本格化する。玉手さんは「鉄道が地域に果たす役割を痛いほど思い知らされたんだろう」と推し量る。1968年に丸森―槻木駅間の開業にこぎ着けた。
伊達地方を通って両県を結ぶ―。厳しい現実がその願いを阻む。乗客数の伸び悩みや国鉄の経営難で、数年後に予定されていた全線開通は大幅に遅れた。1981年9月、ついに廃止対象という“最後通告”を受ける。福島市延伸に向けてほぼ完成していた線路の土台も工事が凍結された。
「このままでは終われない」。12月、沿線自治体が連携し、保原町(現伊達市)で「国鉄丸森線廃止絶対反対全線開通総決起大会」と題し大規模集会を開いた。約1500人が集まり、会場は熱気に包まれた。玉手さんは「全線開通への強い思いが結集した」と振り返る。
だが、国鉄は経営が改善せず、大会の翌年、自治体などの出資による三セクでの運行を地元に提案した。両県知事や首長らが議論を重ねた。大会などを通じて自治体には鉄路をつなげようとの一体感が生まれていた。鉄道の維持には三セクしかない―。阿武隈急行の設立が決まった。丸森線は阿武隈急行線に名を変え、1988年7月、全線開通した。「先祖の悔しさを晴らせた思いがした」。玉手さんがほほ笑む。
両県を結んだ鉄路。開通を待ちわびた福島県側では路線を生かした地域振興に力を入れていく。
※阿武隈急行線 福島―槻木(宮城県柴田町)駅間の全24駅54・9キロ。「国鉄丸森線」として、1968(昭和43)年4月1日に丸森(宮城県丸森町)―槻木駅間が部分開業した。不採算路線のため第三セクター鉄道への転換が決まり、1984年4月5日、福島、宮城両県や沿線市町などの出資で阿武隈急行株式会社を設立。「阿武隈急行線」として、1988年7月1日に全線開通した。