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岩城常隆の供養五輪塔(9月14日)

2025.09.14 09:13

 神奈川県座間市の心岩寺を訪ねた。庫裏[くり]にまわり、「お参りをしたいのですが、戦国武将、岩城常隆の供養五輪塔はどこにありますか」と尋ねると、「本堂の北、池の脇の急な坂を道なりに登っていただいて、登り切ったあたりにあります」との返事。

 教えてもらった急坂をややしばらく登ると、そこに五輪塔が建っていた。

 この五輪塔は江戸時代の初めに建てられたというが、その後、どのような経緯からなのかは不明だが、長い間、土中に埋もれることになった。だが、昭和29(1954)年に掘り出され、昭和42(1967)年には座間市の重要文化財に指定された。

 戦国時代の末期、いわき地域などを支配した戦国武将、岩城常隆の菩提[ぼだい]を弔うための五輪塔が、なぜ、いわきを遠く離れた神奈川県の座間の地に建っているのか、不思議に思われるかもしれない。

 話は500年ほど前までさかのぼる。戦国武将、岩城重隆の娘、久保姫が伊達晴宗のもとに嫁いだ。この夫婦は11人の子宝に恵まれた。長女の阿南姫[おなみひめ]、後の大乗院は須賀川の二階堂盛義に嫁いだ。長男の鶴千代丸は、伊達の家督は継がず、岩城重隆の養子となり、名を岩城親隆と改め、岩城の家督を継いだ。次男の輝宗は伊達の家督を継ぎ、4女の彦姫は会津の蘆名盛興に嫁ぎ、5女の宝寿院は常陸の佐竹義重に嫁いだ。

 晴宗と久保姫の子どもたちは、有力な戦国武将などのもとに養子に入ったり、嫁入りをしたりした。これによって、伊達は東北地方の南部を中心に大きな力を持つようになった。

 ところが、晴宗から代替わりをし、孫の政宗の時代になると、伊達の戦略は大きく変化した。血のつながりによる緩やかな結び付きでは弱い、武力による征服が必要だとの考えのもと、他領への侵出を繰り返すようになった。

 この動きに対し、常陸の佐竹義重、義宣親子が猛反発をした。岩城親隆の子、常隆や会津の蘆名などと手を結び、数度にわたって、伊達と戦った。

 このような情勢下にあった天正18(1590)年、豊臣秀吉による小田原征伐が行われた。関東地方などに大きな勢力を持つ小田原の北条を討伐し、さらには、その勢いに乗じ、一気に東北地方の支配を進め、天下統一を成し遂げようと、秀吉は考えていた。

 小田原征伐の際、秀吉は各地の戦国武将に対し、自分に味方して、ともに戦うこと、つまり、参陣を要求した。

 岩城常隆は秀吉の求めに応じ、手勢を率いて、いわきを出立し、小田原で秀吉と会い、参陣を果たしたが、その後、程なく、座間の地で他界した。24歳だった。

 それから、幾年[いくとせ]かの歳月が経過した江戸時代の初め、常隆を供養するための五輪塔が座間の地に建てられたわけなのだが、残念ながら、この五輪塔が建立されるに至った経緯などはわからない。

(夏井芳徳 医療創生大学客員教授)