東京電力福島第一原発事故の発生から9年4カ月余りが経過した。飯舘村は村内で唯一、帰還困難区域となった長泥行政区の特定復興再生拠点区域(復興拠点)外に村営復興公園を整備して拠点内外の避難指示を一括解除する方針案を示し、国と協議を進めている。帰還困難区域を抱える首長は地域の実情を考慮するよう求めている。内堀雅雄知事は未除染地域でも条件付きで一括解除する考え方を「特殊事例」と表現した。特殊事例とされた長泥行政区の住民らの今を追う。
母屋のトタン屋根が夏の日差しを照り返す。タチアオイが咲く庭は手入れが行き届き、あるじが不在のようには見えない。だが、屋内に足を踏み入れると、侵入した小動物の痕跡が目につく。原発事故で帰還困難区域となった飯舘村長泥字曲田から福島市渡利に避難している無職杉下定男さん(70)は半世紀ほど暮らした自宅を見つめ、複雑な表情を浮かべた。「お盆過ぎには解体が始まるんだ」
自宅は長泥行政区に設けられた復興拠点の外にある。拠点内は国が2023(令和5)年春までの避難指示解除を目指し、除染や建物の解体を進めている。一方で拠点外の方針は明らかにされていない。ただ、環境省は今夏、道路沿いや家屋周辺などの一部で除染を実施する計画案を示した。
国が動く要因となったのは、村が打ち出した村営復興公園の設置方針だ。定男さんの自宅は、その予定地となった。
◇ ◇
定男さんは長泥行政区東部に位置する曲田の自宅で生まれ育った。太平洋戦争直後、長泥西部出身の父の故玄碩(げんせき)さんが林野を開墾し、自宅を建てた。「重機も満足にない時代に手作業で雑木を切り、運び出したのだろう」。父の苦労に思いをはせる。1958(昭和33)年、定男さんが小学生の時に現在の母屋の主要部分が出来上がった。20数年後に増築し、今の姿になった。
「周辺はみんな開墾地。大人が大勢で木の根を引っ張り、土地を切り開いた」。定男さんの妻徳子さん(67)も長泥行政区で生まれ育った。幼い頃、夏休みになると収穫した麦の脱穀を手伝った。汗ばんだ肌にもみが張り付いた。作業の後、友達と近くの比曽川で遊びながら洗い流した。阿武隈山系を流れる水の冷たさに、子どもたちが上げた歓声が谷間に響いた。
◇ ◇
住民の思い出が詰まった土地は原発事故で変わり果てた。復興拠点内は、ほとんどの民家が解体された。だが、曲田などにある拠点外の16戸は手付かずのままだった。「まるで村八分だ」。長泥行政区に生まれ、根を下ろした杉下さん夫妻は、拠点外が取り残されている状況に違和感を抱き続けてきた。
住民の分断を懸念した村は今年5月、長泥行政区の復興拠点内外の避難指示を一括解除する方針案をまとめ、国と協議に入った。拠点外に村営復興公園を設け、住民が立ち入ることができるようにするのを柱に掲げた。
そこで課題に浮かんだのが、公園の設置場所だった。拠点外は山林が多くを占める。適地となり得るのは事実上、住宅の敷地周辺に限られた。
拠点外16戸のうち、どの家が公園の土地を提供するか-。ある日突然、杉下さん夫妻に村から難問が突き付けられた。