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必ず小良ケ浜に帰る 区域内での分断進んだ 白地地区【復興を問う 帰還困難の地】(21)

2020.09.12 08:00
故郷の海を眺め、望郷の念を募らせる佐藤さん

 東京電力福島第一原発事故による帰還困難区域内で、特定復興再生拠点区域(復興拠点)から外れた地域は帰還の見通しが立たない「白地(しろじ)地区」と呼ばれる。原発事故発生から十年目となった現在も、国は除染や避難指示解除の方針を示していない。白地地区の住民らの今を追う。


 原発事故により帰還困難区域に設定された富岡町小良ケ浜(おらがはま)行政区にある木造の平屋住宅。軒下にはクモの巣がはびこっていた。行政区長の佐藤光清(こうせい)さん(65)は、九年六カ月にわたり住めなかった自宅を直視できない。室内はイノシシに荒らされて物が散乱し、空き巣にも入られた。物置小屋の屋根は崩れ、荒廃が進んでいる。

 小良ケ浜と深谷の両行政区を除いた町内の帰還困難区域は二〇一八(平成三十)年三月、復興拠点に認定された。拠点内は除染が進み、町は二〇二三(令和五)年春の避難指示解除を目指す。

 一方、白地地区となった拠点外の両行政区の除染計画や避難指示の解除時期は示されていない。同じ区域の中で、復興に向け動き出した地域と止まったままの地域がある。佐藤さんは、帰還困難区域内で分断が進んでいると感じる。

 町は拠点外について、町主体による除染や家屋解体の実施を国に求めた。町が計画を策定して居住環境の整備を進め、早期の避難指示解除に結びつけたい考えだ。

 だが、国の動きは見えない。「故郷はどうなるんだ」。対応の遅さにいら立ちを覚える。

   ◇    ◇

 佐藤さんは小良ケ浜行政区の農家の次男として生まれ育った。水はけの良い広大な農地を耕して主にコメを生産してきた。

 五百メートルほど歩けば、太平洋の入り江に出る。切り立った断崖に囲まれた海岸には「日本一小さな漁港」と言われた小良ケ浜漁港があり、サケやアイナメなど海の幸をもたらした。港につながるトンネルは青の洞門とたたえられ、航路を導く灯台と美しい景観を織りなしていた。一九八五(昭和六十)年に閉港となったが、その風景は佐藤さんの心に刻み込まれている。

 小高工(現小高産業技術)高を卒業した後、自宅近くの養豚場に就職した。十年ほど働いてから町内の建設会社に転職した。妻まゆみさん(58)との間に四人の子どもを授かり、農業と会社勤めを両立させていた。

 床面積が百五十平方メートルの家は築約七十年。「いずれは新築しようか」。ついのすみかを構え、穏やかな老後を過ごすはずだった。その人生は、原発事故で大きく狂わされた。

   ◇    ◇

 家族とともに県内を転々と避難し、高齢の母を茨城県阿見町の親戚宅に預けた。原発事故発生から一カ月後、福島第一原発の復旧作業に協力するよう、知人の重機会社の社長に頼み込まれた。

 「故郷のため、誰かがやらなければ」。現場に入ると、水素爆発した4号機建屋から煙のようなものが立ち上り、線量計からけたたましい警告音が響いた。放射線の恐怖におののきながら、構内で使う機材を運ぶ仕事を五年ほど続けた。

 帰還困難区域になった小良ケ浜行政区には長期間にわたり帰還できなくなった。二〇一三年五月、いわき市平に長男夫妻との二世帯住宅を建てた。一階には佐藤さん夫妻、二階には長男夫妻、孫の三人が暮らす。家族に囲まれて安らげるが、人情味あふれる人々が集い、自然に富んだ小良ケ浜行政区での暮らしを諦められない。

 「必ず郷里に帰るんだ」。望郷の念は日増しに強まっている。