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「負の財産」残せない 故郷の行く末気掛かり【復興を問う 帰還困難の地】(25)

2020.09.20 10:08
会津若松市の自宅で過ごす浅野さん。原発事故により大熊町での家族の営みは奪われた

 木の香りがする自宅を出ると、右側に同じように真新しい住宅がある。「本当なら大熊に家ができるはずだった」。東京電力福島第一原発事故で帰還困難区域となった大熊町熊地区から会津若松市扇町に避難している無職浅野孝さん(67)は、複雑な表情で二つの家を見上げた。

 大熊町の自宅敷地では、長男夫妻が二〇一一(平成二十三)年三月下旬から新居を建て始める予定だったが、直前に発生した原発事故で白紙となった。自宅は国が二〇二三(令和五)年春までの避難指示解除を目指す特定復興再生拠点区域(復興拠点)や汚染土壌を保管する中間貯蔵施設用地の外で、除染計画の定まらない白地(しろじ)地区に該当する。将来が見通せない中、二〇一三年末に会津若松市に新居を建てた。ほぼ同時に長男夫妻が隣接地に新居を設けた。

 大熊町で予定していた敷地内での多世代同居は、約百キロ離れた場所で実現したものの、思い描いていた未来とは大きく異なった。「タイムマシンがあれば、原発事故が起きないようにいろいろ細工してくるんだけどな」。無念さが募る。

    ◇  ◇

 浅野さんは四人兄弟の三男として生まれ、大熊町の自宅で育った。浪江高を卒業後に上京し、鉄道会社に入社した。三年ほど改札業務など駅の仕事に当たった。刺激に満ちた都会の生活を楽しんでいたが、兄の仕事の都合で家を継ぐことになり帰郷した。一九七九(昭和五十四)年に智枝子さん(65)と結婚し、一男一女に恵まれた。

 コメなどを育てながら町内にある薬品会社の工場に勤務する多忙な生活を送った。「田んぼの手入れ、肥料の準備と仕事は尽きなかった」。工場が休みの日こそ朝から働き、兼業農家として家を守ってきた。

 たまの休息に町内の熊川でアユ釣りを楽しんだ。阿武隈山系から太平洋へ注ぐ川面を見ながら、心静かに釣りざおを握った日々に思いをはせる。

 夏の終わりから秋にかけて町特産のナシをほおばるのが楽しみの一つだった。浜通りの陽光を浴び豊かな土壌に育まれたみずみずしいナシは「どの産地にも負けないおいしさ」と今も思う。家族の営み、暮らしを彩った美味は原発事故で奪われ、時計の針は止まったままだ。

    ◇  ◇

 帰還困難区域を抱える富岡、大熊、双葉、浪江、葛尾、飯舘の六町村のうち飯舘村を除く五町村による協議会は国に対し、復興拠点外の避難指示解除に向けた道筋を早期に示し、除染や家屋解体などを進めるよう求めている。東日本大震災と原発事故から十年目となっても何も進展しない現状に「帰っても仕方ない」との諦念を抱える。

 だが、故郷の行く末は気掛かりだ。子や孫に「負の財産」は残したくない。再び、あの穏やかな大熊を取り戻したいと願う。「国は行き当たりばったりの政策をやめてほしい。見通しを明確にし、除染や避難指示の解除要件を示すべきだ」