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家に寄る気力失せた 悔しさといら立ち募る【復興を問う 帰還困難の地】(27)

2020.09.23 09:07
浪江町加倉のエゴマ畑で若者らと作業する石井さん(左)

 浪江町加倉の一一四号国道沿いに広がるエゴマ畑に、陽光を浴びた葉が青々と広がる。東京電力福島第一原発事故に伴い福島市に避難している町内津島地区赤宇木(あこうぎ)の自営業石井絹江さん(68)は、長靴で大地を踏みしめる。「やっぱり、古里の土の匂いは落ち着くなあ」。町内で農業を学ぶ若者たちと一緒に、茎を太くするための摘心作業に没頭する。

 津島地区は原発事故により帰還困難区域となった。石井さんの自宅からわずか百メートルほど南西側の津島地区下津島は、特定復興再生拠点区域(復興拠点)に含まれた。国が二〇二三(令和五)年三月の避難指示解除を目指し、除染や建物解体を進めている。

 一方、自宅のある赤宇木は拠点外の白地(しろじ)地区となった。国は原発事故から十年目となった今も除染や避難指示解除の見通しを示していない。すでに避難指示が解除されている加倉のエゴマ畑には月に十五日ほど通うものの、自宅に戻る機会はめっきり減った。「十年近く放っておかれたら、家に寄る気力も失(う)せてしまうよ」

    ◇  ◇

 石井さんは津島地区南津島で生まれた。高校を卒業後、一九七〇(昭和四十五)年に町職員となった。六年後に酪農を営む隆広さん(72)と結婚し、赤宇木に嫁いだ。近くにはスーパーもコンビニもない。便利ではなかったが、穏やかな暮らしが気に入っていた。

 勤続二十年を過ぎたころ、地域おこしに挑戦したいとの思いが強まった。希望して町産業振興課に異動し、農業と出合った。

 中山間地域の津島地区には目立った特産品がなく、遊休農地が点在していた。石井さんは、多くの家庭で栽培されていたエゴマに着目した。栄養豊富で食べると十年長生きするとの言われから「じゅうねん」とも呼ばれる。

 「エゴマを栽培して遊休農地をなくし、特産品をつくろう」。住民に呼び掛けた。最初は聞き入れてもらえなかったが、熱意を伝え続けた。当時の町長が理解を示し、財源を確保してくれた。津島地区の住民らでつくる「つしま活性化協議会」を設立した。油絞り機を整備し、エゴマ油の製造を始めた。

 住民が誇らしげに栽培に励む姿を目にし、農業で地域に活力が生まれたのを感じた。

 五十歳のころ、町内に道の駅が整備されると話題になった。どんな特産品を販売できるだろうかと、少しずつアイデアを温めていった。二〇一一(平成二十三)年三月、原発事故が起きた。夢は志半ばで途切れた。

    ◇  ◇

 いつか浪江に戻る-。六十年近く過ごした古里への思いが避難先で生きていく原動力になってきた。だが、自宅周辺は国に放置されたまま、時間だけが過ぎ去った。石井さんは夫隆広さんと二〇一五年に避難先の福島市に石井農園を設立した。

 望郷の念は消えない。帰れるなら、帰りたい。ただ、帰ったとしても赤宇木で安心・安全な作物が再び作れる確信は持てない。帰還の意欲は年を経るごとに薄れつつある。

 「国には三、四年で決着をつけてほしかった」。帰還困難区域が取り残されている現状に、悔しさといら立ちが入り交じる。