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手を付けない「無責任」 全域の除染求め続ける【復興を問う 帰還困難の地】(33)

2020.09.29 07:59
浪江町津島地区は地区全体が帰還困難区域となった。津島保育所は休所中で、再開の見通しは立っていない

 一九五六(昭和三十一)年五月に合併し、浪江町の津島地区となった旧津島村は、全域が東京電力福島第一原発事故により帰還困難区域となった。吉田数博町長(74)は「津島は開拓者のまちだった」と歴史をひもとく。第二次世界大戦後、旧満州などから帰国した県内外の人々が、国から土地や農具をあてがわれたという。

 原発事故の発生から十年目となった今も、住民は古里に帰れていない。津島地区の住民を思う時、同年代の男性から聞いた話がよみがえってくる。

    ◇  ◇

 男性の両親は木を切って柱を立て、ササの葉で屋根を作り家を建てた。山林を切り開いて畑を整備した。生活のために、とにかく働いた。夜はたいまつをともし、昼夜問わず農作業に従事した。「おやじとおふくろは、いつ寝ているんだろう」。子どもながらに気掛かりだった。

 男性は原発事故により避難を余儀なくされた。吉田町長に「両親が大変な思いをして開墾した土地を、原発事故で奪われた。このまま失いたくないんだ」と窮状を訴えた。

 吉田町長は町内苅野地区で育った。小高工(現小高産業技術)高を卒業後、専業農家として水稲栽培などを手掛けていた。町議として地域発展に尽くした父・故健さんの背中を見て政治の道を志し、一九九七(平成九)年に町議になった。町議会議長を経験し、町長に就いた。

 広大な田畑に黄金色の稲穂が実り、風に揺れる。渓流釣りやキノコの収穫、山菜採りができる生活に憧れた都会出身者が、山間部に移住してくることもあった。当たり前だと思っていた風景は原発事故で突然、失われた。

    ◇  ◇

 浪江町の帰還困難区域のうち、特定復興再生拠点区域(復興拠点)は約六百六十一ヘクタールにとどまっている。拠点外の白地(しろじ)地区は約一万七千四百七十八ヘクタールに及び、除染や建物解体の方針が示されていない。

 帰還困難区域を抱える自治体では最近、拠点外の避難指示解除を目指す動きが出てきた。双葉町は拠点外も一括で復興拠点とするよう国に求めている。富岡町は町主体での除染を国に提案している。

 だが、津島地区を中心に広大な面積と高線量地帯が残る浪江町は、一筋縄ではいかないのが実情だ。吉田町長は「町内の状況を考えれば、国が方針を打ち出しにくい状況も理解できないわけではない」と話す。しかし、「線量が高いから手を付けないというのは無責任だ。できるところから避難指示解除に向けた取り組みを進めてほしい」と注文を付ける。

 拠点外の住民から、「いつ復興が始まるのか」と詰め寄られることもある。特に、津島地区は小中高校、診療所、郵便局などの社会基盤が整った一つの「まち」だった。帰還を切望する住民の声は途絶えることがない。

 吉田町長は、住民が帰る時期を見通せなければ希望を持てないと危機感を募らせる。「帰りたい、という思いに応えたい。国に町土全域の除染と避難指示解除を求め続ける」。古里の将来を見据え、覚悟を示した。

(第3部「白地地区」は終わります)