いわき市に避難している大熊町行政区長会長の土屋繁男さん(72)の町内小入野(こいりの)にある自宅は、除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設の敷地内にある。現在も取り壊されずに残っているが、既に国に売却し、鍵を渡してある。
避難生活を強いられてから間もなく十年。「古里には、もう帰れない。もはや思い出の地になってしまった」
町内熊町に生まれた。高校を卒業後に上京し、通信機器の修理やジーンズショップ店長などの仕事に就いた。郷土で落ち着いて暮らそうと思い立ち、三十五歳でUターンした。妻カホルさん(71)の実家を更地にして一軒家を建てた。
東京電力福島第一、第二両原発を警備する会社に勤務した。放射線取扱主任者の資格を取り、主に従業員の被ばく管理に当たった。
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原発事故が起きたあの日、東電の社員らとともに福島第一原発構内の緊急対策室にいた。「もう駄目かもしれない」。原子炉が制御不能になったと知り、一時は死を覚悟した。
喜多方市に避難し、二〇一三(平成二十五)年六月に、いわき市に移った。環境省が開催した住民説明会で、中間貯蔵施設事業の概要を聞いた。
古里に汚染された土壌が運び込まれることにショックを受け、さまざまな思いが交錯した。「福島の復興を進めるため犠牲になるしかないのか。だが、原発事故によって汚された土を原発周辺地域が受け入れなければ、どこかに押し付けることになる」
施設建設に反対ではない。でも、もろ手を挙げての賛成ではない。妻と過ごした大切な家を失うのはつらかった。一方、原発に勤務していた「当事者」として、環境再生のために協力しなければならないとも考えた。
「こんな苦しみはなかなか他の人には言えない」。全域が中間貯蔵施設整備地となった野馬形(のまがた)行政区の区長として、揺れる思いを胸にしまい続けてきた。
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土屋さんは二〇一六年十月、国に土地と建物を売却した。国は現在、中間貯蔵施設の整備を進め、除染廃棄物の搬入を着実に進めている。一方、国は将来的に帰還困難区域の全ての避難指示を解除する方針を示しているが、区域内の特定復興再生拠点区域(復興拠点)の外では、除染や避難指示解除の見通しすら立っていない。
除染廃棄物は中間貯蔵施設への搬入開始から三十年以内の県外最終処分が法で定められているものの、先行きは不透明だ。
「国は約束を守り、県内を元の環境に戻してほしい。『責任を持って除染し、復興を進める』と言うから、我々は土地と自宅を手放したんだ」。古里を失った悲しみをこらえ、国に求めた。