「国として海洋放出を行う以上、廃炉と処理水の放出を安全に完遂する。漁業者が安心してなりわいを継続できる必要な対策を、今後数十年の長期にわたろうとも政府が全責任を持って対応すると約束する」。首相の岸田文雄は8月21日、官邸で面会した全国漁業協同組合連合会(全漁連)会長の坂本雅信に、こう強調してみせた。東京電力福島第1原発の放射性物質トリチウムを含む処理水の放出開始日を決定する関係閣僚会議を翌日に控えていた。
坂本ら漁業者の海洋放出に反対する姿勢は変わらなかった。政府が2015(平成27)年に漁業者と交わした「関係者の理解なしには(処理水の)いかなる処分も行わない」との約束が反故(ほご)にされるのではないかとの疑念があった。政府が処理水処分を決行するには約束の上に約束を積み増すしかなかった。
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「一定の理解を得たと判断する」。経済産業相の西村康稔は首相と坂本の面会に同席した後の記者会見で、処理水処分の前提となる「理解」に言及した。「一定の」を付け加え、約束が破たんしていないと印象付けた。一方、坂本は「科学的な安全性への理解は深まってきた」としたものの放出への反対姿勢は貫いたままで、誰もが認めるような「理解」が得られていないのは明白だった。
政府内では約束を一方的に破棄する強行策は選択肢になかった。当時の経済産業副大臣で原子力災害現地対策本部長を務めた太田房江は「理解の言葉を外せば、政府への不信を招く」と理由を示す。
漁業者との約束を破らずに、処理水の処分に踏み切る―。政府は悩み抜いた末、次のカードを切らざるを得なかった。
「廃炉と処理水放出の安全な完遂」と「漁業者が安心してなりわいを継続できる必要な対策」。政府は数十年にも及ぶ将来に責任を持つと宣言した。太田は「新たな約束は政府の覚悟を示したものだ」と語る。
政府は再び、眼前の障壁を乗り越えるため、将来的な課題への対応を引き合いに出した。漁業者から「サブドレン計画」の容認を得るために用いた手法と全く同じだった。政府関係者は「理解を得るという取り組みは現在進行形とした。そこに廃炉と処理水放出の完了までの全責任を負うことを加え、落としどころとしたのだろう」と推察する。
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政府は8月24日、海洋放出を断行した。原発事故発生から約12年半が経過していた。
処理水放出を巡り、政府は「その場しのぎ」や「結論ありき」の対応を繰り返し、さらには「約束」の解釈をすり替えた。長期にわたる福島第1原発の廃炉の過程では、さらなる難題が待ち受ける。溶融核燃料(デブリ)は取り出しに至らず、処分方法も決まっていない。それでも政府は「廃炉の安全な完遂」まで踏み込んで新たな約束を打ち出した。中間貯蔵施設(大熊町・双葉町)に保管している除染土壌は、2045年までの県外最終処分を法律で定めた。
増え続ける政府の約束に、霞が関からは「約束を一つ一つ果たしていくしかないが、どれも極めて重い」と憂いの声が上がる。
政府は自らの都合を優先するあまり、将来に不安を抱く県民をおろそかにしてはいないか。海へと流れゆく処理水から、問いが浮かぶ。(敬称略)=序章「処理水は語る」は終わります=