福島県浪江町出身の鍋島悠輔さん(20)は小学1年生の時、東日本大震災で母親と祖父母を津波で失った。父親は行方不明のままだ。遺児となり、前向きさを失わずにいられたのは、犠牲になった家族が注いでくれた愛情のおかげだったと思う。現在は東京都の専門学校でギターやベースの楽器製作を学ぶ。「今を精いっぱいに生きてる。天国で自分を応援してくれているかな」と思いをはせる。
【漁業と焼き物の里】
浪江町は福島県の沿岸部に位置し、大堀相馬焼や太麺が特徴のなみえ焼そばが特産として知られる。大津波で損壊した町内の請戸(うけど)漁港は復旧し、ヒラメやシラウオが盛んに水揚げされている。 震災前は約2万人が暮らしていたが、東京電力福島第1原発事故に伴い全域に避難指示が発令。放射性物質を取り去る除染が進み、一部を除いて居住できるようになった。現在、生活しているのは約2000人だ。 自宅は漁港から数百 メートルの場所にあった。父彰教さん(46)、母弥生さん(43)と5歳上の姉の4人で同居し、祖父の鈴木澄夫さん(72)と祖母の照美さん(67)宅も付近だった。
【父親のぬくもり】
父は請戸地区にある苕野(くさの)神社の禰宜(ねぎ)、祖父は宮司を務めていた。神社では毎年2月に豊漁豊作と海上の安全を祈願する伝統行事「安波(あんば)祭」が繰り広げられ、地域住民の心のよりどころだった。神社の仕事をする父親の手伝いをすることもあった。神聖な雰囲気に包まれ、真剣な表情は幼心に誇らしく感じていた。 「ゲームをしよう」。休日の夜は父を誘ってテレビゲームを楽しむのが恒例。スポーツのゲームに、夢中になって興じたのを覚えている。肩車や膝の上に乗せてくれ、父のぬくもりも忘れられない。
【母親の手料理】
母は看護師の仕事に就いていた。忙しさに追われながらも、食卓には腕によりを掛けた料理が並んだ。手作りのパンやお菓子が香ばしくて好きだった。とぼけた会話で笑わせるユニークな一面も。時にはゲームをし過ぎて、しかられることもあったが、言動には常に愛情があふれていた。 両親は何事にも挑戦させてくれた。水泳やサッカー、習字…。常に背中を押す存在だった。そんな親に育てられたからこそ、前向きな性格になったのだろうと感謝する。 祖父母もこよなく愛している。毎週1度は、遊びに行った。祖父のハーモニカを吹いて遊んだ。祖母はいつも牛乳を用意して迎えてくれた。記憶に残るのは楽しかった日々ばかり。
【古里のみ込む津波】
そんな幸せな時間は2011年3月11日に突然、奪われた。 通学していた請戸小近くの学童保育で父の迎えを遊びながら待っていた時、強烈な揺れに襲われた。机の下へとっさに身を隠す。建物は音を立ててきしみ、背後の本棚が倒れた。長い間、揺れていたような気がした。その場に居合わせた大人も子どもも、 恐怖で表情が青ざめていた。 「津波が来る」。鋭い声が室内に響いた。学童保育の職員と車で近くの山に避難した。とにかく無我夢中だった。当時の詳しい記憶はあまりない。ただ、車の後部座席から見えた茶色い波が壁のようになり、陸に向かう光景は鮮明に脳裏に刻み込まれている。慣れ親しんだ地域に押し寄せた津波に恐怖したことも。
【募る不安】
その日のうちに高台に設けられた避難所に身を寄せた。家族と連絡は取れなかった。被害状況も全く分からず、自分と同じようにどこかに避難していると信じていた。余震が続いていた。配られた毛布や段ボールの手触りを覚えている。身を包んでも、気分は落ち着かなかった。 そのころ、原発は暴走していた。 12日には20キロ圏内に避難指示が出されるなど、家族に会えないまま県内各地を転々とした。「当時の状況はあまり覚えていないけど心細かった」。どの避難所にどのくらい滞在したのか、記憶はあいまいなほど目まぐるしい日々を孤独の中で過ごした。 姉が小学校の教頭と一緒にいると分かって会いに行った。とにかく安心したことを強く覚えている。
【のみ込めない状況】
しかし両親や祖父母の行方は、依然として不明だった。原発事故の影響で十分な捜索ができていなかったと知ったのは、成長してからのことだ。 幼かった悠輔さんは状況をのみ込めなかった。「どうして迎えに来ないんだろう」。両親や祖父母が、いつか姿を見せると考えていた。 今思えば、最悪の結末を考えないようにしていたのかもしれない。
【新たな生活】
3月下旬、神奈川県平塚市の父方の祖父母に姉とともに引き取られた。4月から市内の小学校への転入が決まった。 「浪江の家族はどうしているんだろう」。姉と1度話したが、答えは出なかった。「どこかにいるんだろう」。自身に言い聞かせた。新たな学校では幸いにも友人に恵まれ、すぐになじむことができた。
【現実 受け止められず】
「母さんは見つかったけど、父さんはまだ見つかっていないんだ」。平塚市の祖父から母親の死を告げられた。震災から半年が経過していた。仏壇の前だった。姉の目からは涙が落ちたが、悠輔さんは泣けなかった。最愛の人を失った衝撃をどう理解すべか分からなかった。 「ぼうぜんとしたような感じだった」と振り返る。自宅にいた両親は祖父母の家に車で迎えに行ったところで津波に巻き込まれたとみられる。祖父母の遺体も確認されたことを知った。「何でなんだろう」との思いが巡った。
【夢の中で再会】
以来、夢に両親が現れるようになった。ゲームセンターで遊んでいる自分を迎えに来てくれる2人。安心したのもつかの間、目が覚めて夢と気づく。 「何で津波から逃げてくれなかったのか」。どうしようもなく寂しくなり、旅立った母を非難するような思いもよぎった。 「行方不明の父はいつか来てくれるんじゃないか」と期待したが、姿を見せることはなかった。徐々にではあるが、現実を受け入れるようになった。友人と過ごす時間が、心の傷を癒やしてくれた。
【音楽との出合い】
夢中になれる音楽との出合いもあった。小学校高学年でイギリスに研修旅行した時、各国の子どもを前にカラオケを披露し、その場を盛り上げた。歌ったのはジャクソン5。物おじしない性格にしてくれた両親のおかげだろう。次第に将来は音楽に関わる職業に就きたいと考えるようになった。 高校から軽音楽を始め、さらにのめり込んだ。ギターやベースを演奏し、ボーカルも務めた。楽器その物にも興味を持ち始めた。 2年前から東京都内の専門学校に通って楽器製作や修理方法を学んでいる。小さな自分が抱えていたような寂しさに届く音色を響かせたい。木材の加工や色を塗る細かな作業に苦戦しながらも作業台に向かう。4月からは就職活動が始まる。楽器店のスタッフが目標だ。仲間とライブする機会もある。「もしも見てもらえるならこんなにも今を楽しんでる姿を見てほしい」と天国の家族に語りかける。
【古里】
今年1月、二十歳を祝う会で3年ぶりに浪江町を訪れた。幸せと苦悩が入り交じる古里。母校は震災遺構として、あの日の教訓を今に伝えている。 古里に立つと家族との思い出がよみがえる。包み込むような優しさを感じられるようだった。復興は進んでいても、かつての姿には遠く、さみしさも感じる。当時の自分たちのように子どもたちがにぎわう町へ復興を願ってやまない。 11日、県主催の東日本大震災追悼復興祈念式で遺族代表の言葉を述べる。家族の優しさと津波の教訓、支えてくれた人への感謝を込めるつもりだ。「堂々と伝えたい。家族の愛を大切に今を楽しんで生きていくからね」。そう語る表情に、13年を歩んだ力強さがにじんだ。 この記事は福島民報とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。