「今の時代は、友だちの近況がすぐに分かってしまう」。双葉町の団体職員小泉良空(みく)さん(27)=大熊町出身=は、仕事の合間に立ち寄った施設で手元のスマートフォンを操り、交流サイト(SNS)の画面に視線を落とした。
結婚や出産を経験した旧友の投稿を目にすると、時折、自分と比べてしまうことがある。「誰に何を言われるわけでもない」けれども、複雑な感情が胸をよぎる。
田園風景の広がる大熊町野上地区の農家に一人娘として生まれた。幼い頃は毎年春になれば、田植えに励む家族の傍らで生き物たちと触れ合った。空気が澄んで自然豊かな古里が好きだった。「いつか、祖父や父のように私も田植え機に乗る日が来るのかな」。将来を夢見て、愛した故郷はやがて「帰還困難区域」と呼ばれるようになった。
東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が起きた2011(平成23)年3月は大熊中の2年生だった。事態をうまくのみ込めないまま、家族に連れられ、県外に避難した。1カ月ほどが過ぎたある日、会津若松市に中学校の仮校舎ができると知った。迷わずに通学を決めた。なじみの仲間や先生と一緒に学べる安心感が大きかった。
いわき市のいわき総合高から東京都内の大学に進学し、福島市の住宅会社に就職しても、大熊町への愛着は消えなかった。2021(令和3)年5月に今の仕事に転職した。まずは既に居住が可能だった富岡町に「帰還」した。翌年6月に野上を含む大熊町の一部の避難指示が解除されると、かつての実家の近くに賃貸住宅を借りた。
現在は双葉町の職場に通いながら、語り部の一人として震災と原発事故の伝承活動や復興の歩みの発信にも携わっている。
双葉郡に生活の拠点を戻したころは知り合いが少なく、自宅と職場を往復する日々が続いた。日がたつにつれて活動範囲や交友関係が広がり、年代の近い移住者らと打ち解けた。会食などの楽しみも増えた。
時間がゆったりと流れる地元は「一番心地よい」。いずれは自分の家庭を築いて、更地となってしまった実家の跡地に新しい住まいを構えるつもりだ。
ただ、町民に長年親しまれていた学校や図書館、スーパーなどは「復興」の名の下で、次々とその姿を消していっている。小中学校時代の同級生の中でも、戻って来る人は少ない。
「30歳までには家庭を持ちたい」と漠然と考えている。ここで一緒に人生を歩んでくれる伴侶に巡り会えるだろうか―。「大熊での暮らしを理解してくれる人と結ばれたい」と願い、古里の再生と向き合う日々を過ごしている。