■震災後・南相馬支社記者 藁谷隆
福島市から県道原町川俣線を通って飯舘村に向かった。坂道を曲がるたび、車内でストラップの鈴が鳴る。黒い牛のストラップには「飯舘牛」と書いてある。二〇一一(平成二十三)年六月、東京電力福島第一原発事故に伴う全村避難で休業となった飯舘村直営の書店「ほんの森いいたて」の最後の営業日に買い求めた物だ。坂を上り切ると「いいたてむら お帰りなさい 首を長~くして待ってたよ」と看板が迎えてくれた。
沿道に整備された「いいたて村の道の駅 までい館」の駐車場は埋まっていた。直売所には県オリジナル米「里山のつぶ」やホウレンソウなど、村で栽培された農産物が誇らしげに並ぶ。
多目的交流広場「ふかや風の子広場」では親子が遊んでいた。青空の下でシャボン玉を追いかけ、転がるように走る子どもの姿。全村避難が続いていた当時、「いつかきっと」と思い描いていた光景が目の前にあった。
◇ ◇
原発事故で、放射性物質が飯舘村に降り注いだ。二〇一一年四月二十二日には、村全体が計画的避難区域に。約一カ月後の五月十七日、村唯一の特別養護老人ホーム「いいたてホーム」を含む村内九事業所の事業継続を国が特例的に認めた。
いいたてホームには当時約百十人が入所していた。施設を取材で訪れては、お年寄りに寄り添う職員の優しさや決意を感じていた。二〇一九(令和元)年六月まで施設長を務めた三瓶政美さん(72)は「避難先で介護を必要とする高齢者が相次いで亡くなった。原発事故前の『普段の暮らし』を守ろうと懸命だった」と思い返す。
◇ ◇
二〇一七年三月三十一日、避難指示は帰還困難区域となった長泥地区を除いて解除された。今月一日現在、村民約五千二百人のうち、村内の居住者は約千四百八十人で、そのうち新規移住者が約百五十人に上る。ブランド牛「飯舘牛」をはじめ二千八百六十頭いた牛は一時姿を消したが、現在は約四百頭が飼育されるまでになった。
一方、村内には約五十カ所の仮置き場が残り、除染土が入った無数の黒い袋が積み重なる。村役場から南下し、山道を上るとバリケードと警備員の姿があった。その先は帰還困難区域の長泥地区。いまだ帰れない場所がある厳しい現実を突き付けられた。
それでも、村内の家々にともる明かりには希望を感じた。あの頃は暗闇が広がるばかりだった村に、人の営みが着実に戻ってきている。美しい「までいの村」の復興の歩みをこれからも注目し続けていきたい。(現本社報道部記者)