■震災時・いわき支社報道部 丹治隆
「久之浜で大規模な火災が起きているようだ」。二〇一一(平成二十三)年三月十一日の夕方、耳を疑いたくなるような一報が入った。東日本大震災の津波によるがれきが道路をふさぎ、消火活動が難航しているという。
夜中に現場に向かおうとしたが、「行っても現場には近づけない。危険だ」と消防関係者に制止された。もどかしさや無力感を抱えながら朝になるのを待った。
翌朝、幾多の流木が横たわるのを避けながら六号国道を北上した。たどり着いた久之浜町で目にした光景は想像を絶するものだった。JR久ノ浜駅前から海岸に入る道路では津波で倒壊した家屋が道路を埋め尽くし、一晩中燃え続けた火災では約五十棟が全焼していた。
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あれから十年。いわき市久之浜町の沿岸部は見違えるように生まれ変わっていた。防災緑地の整備など復旧工事が進み、二〇一六年には津波避難ビル「久之浜・大久ふれあい館」が完成した。大規模火災が起きた北町も新しい住宅が建設され、取材した日も新しい住宅の工事がまさに行われていた。
防災緑地にはクロマツが生い茂り、立派なビルがそびえ立っていた。見た目の上では、震災の傷痕はなくなっていた。
北町で震災前からスーパー「はたや」を営む遠藤利勝さん(56)は約四年前にようやく、震災前と同じ場所での店の営業再開にこぎ着けた。遠藤さんは「ハード面の工事は終わったが、まだまだ戻ってくる人が少ないし、震災前のにぎわいからは程遠い。本来の活気を取り戻す日が早く来てほしい」と本当の復興を待ち望んだ。
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当時、取材した場所を歩き、震災当時の「何もできなかった」という無力感がよみがえった。目の前に広がる悲惨な光景にただぼうぜんとするしかなく、悔しさだけが募った。
地元紙の記者として何ができるのか。粘り強く被災地の状況を伝えるしかないと気付かされた。そして、地元の人たち皆が「震災前の活気ある久之浜が戻ってきた」と言える日が来ることを心から願う。(現南会津支局長)