■震災前・浪江支局長 渡部総一郎
「避難してください」。二〇一一(平成二十三)年三月十一日深夜。大熊町の防災無線の放送が真っ暗闇に響いていた。合成音声だったのか。無機質で抑揚のない淡々とした調子が不気味だった。
あの日の夕方、取材応援のため福島市の本社から富岡町へ向かった。日付が変わるころ、大熊町役場で東京電力が記者会見を開くとの連絡が入った。通行可能だった県道いわき浪江線を車で向かっていた時の記憶だ。
ちょうどその場所の付近に大熊町の特定復興再生拠点区域(復興拠点)ができた。「新型コロナウイルスに注意しましょう」。町役場の駐車場に車を止めると、防災無線から当時とよく似た調子の声が聞こえてきた。
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大川原地区には、町役場のほか災害公営住宅と再生賃貸住宅、福祉施設などが立ち並ぶ。周囲を取り囲む道沿いに歩いてみると、十五分ほどで一周した。東側には常磐自動車道。震災前の田園風景とのギャップに戸惑う。町役場の隣で今春開店する商業施設の建設が進む。二月には待望の診療所が開所した。町民の受け止めは複雑だろうが、全町避難が続いた長い年月を思えば気持ちが少し軽くなった。
九十戸ある災害公営住宅は帰還した住民でほぼ満室になっている。ただ、八割は六十五歳以上の高齢者で、うち単身者が四割を占める。震災前に旭台地区に住んでいた鈴木照重さん(77)は、町のために何か手伝いたいと昨年、会津若松市から戻った。「避難先ではいい思い出をもらった。ここは不満もあるが、古里はやっぱり落ち着く」と胸の内を明かした。
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帰還困難区域内で、海からほど近くの熊川沿いに自宅があった元町議会議長の松永秀篤さん(68)の一時立ち入りに同行させてもらった。周辺には広大な中間貯蔵施設が造られ、景色は一変。かつての様子が思い出せない場所もあった。「俺だって、そんな時があるよ」。松永さんが無念そうに語った。取材や私用で数え切れないほど歩いた町中心部の商店街は、多くの建物がそのまま残っていた。
二月一日現在、町内に住む住民登録者は二百八十三人で、全体の3%弱に上る。復興庁の住民意向調査では、町民の六割弱が「戻らないと決めている」と回答した。町の関係者は「なぜ戻らないのか、調査の結果は毎年同じ。何が必要かは分かっている。でも、町だけでは解決できない。それが情けない」とため息をつく。政府は復興に最後まで責任を持つ、と言い続けてきた。その言葉が真実であることを願う。(現会津若松支社報道部長)