
東京電力福島第一原発事故で帰還困難区域となった飯舘村長泥字曲田から福島市渡利に避難した無職杉下定男さん(70)の自宅は、特定復興再生拠点区域(復興拠点)の外にある。環境省は拠点外の一部で除染を実施する計画案を示したが、自宅は村営復興公園整備のため取り壊される。
自宅周辺は村が二〇二三(令和五)年春までに復興拠点とともに一括解除する方針案を示しており、先行きが見えない他町村の拠点外と比べ「特殊事例」とされる。
定男さんは、解除されたからといって、昔の暮らしがそのまま戻るとは考えていない。家屋解体への覚悟は決めた。それでも、原発事故で日々の営みを突然奪われた怒り、悲しみ、嘆きは消えることはない。「除染方針が示されるまで、こんなにも時間がかかった。平等に除染するのが本来の姿。これが正しいやり方と言えるのか」
定男さんは自宅の小屋に重機を備える。操作技術を買われ、最近も相馬港で作業に従事した。小屋は復興公園の整備に伴い解体されるが、敷地内に別な保管場を設けて重機をいつでも使えるようにするつもりだ。避難生活を送るうちに破損した水路を手入れするなど、環境を整えていこうと思い描く。
民間会社で重機の運転手を長く務め、コメなどを育てる兼業農家として暮らしてきた。原町、喜多方、二本松…。重機を使って村内をはじめ県内各地の水田を造成した。
一九七二(昭和四十七)年に同じ長泥出身の徳子さん(67)と結婚した。女の子三人の子宝に恵まれた。
家にいる日は、家族とともに自宅近くの田畑で農作業に精を出した。原発事故前は約百二十アールの田んぼのうち九十アールほどで餅米のヒメノモチを育て、残る水田であきたこまちを栽培した。畑には家で食べるジャガイモ、ダイコン、インゲンなどさまざまな作物を根付かせた。地区一丸で栽培に取り組んだ南米アンデス高地原産の植物ヤーコンを手掛けたこともある。
土と向き合い、土と暮らす日々。「丁寧に心を込めて」「手間暇惜しまず」という意味の方言「までい」を踏まえ村が掲げる「までいライフ」を体現するかのような暮らしぶりだった。そんな営みは原発事故で根底から破壊された。
福島市の避難先から長泥行政区の自宅までの距離は約四十キロ。車で五十分ほどかかる。それでも夫妻は、自宅に可能な限り戻り、母屋周辺などで手入れを続けている。
重機の他、トラクター、草刈り機は問題なく使える。ただ、道路を挟み母屋のはす向かいにある田んぼは、環境省の申し出を受け除染した土壌やがれきを置く場所となっている。「人がいなくなったことでサルやイノシシが増えてきた。作物を育てても全部食べられてしまうかもしれない」。避難指示が解除されたとしても、田畑で作物を作れるかどうかも見通せない。