
葛尾村の東部に位置する野行(のゆき)行政区。飯舘村の長泥行政区と同様に村内の行政区で唯一、帰還困難区域として取り残された場所だ。区長の大槻勇吉さん(71)は、避難を強いられて十年目の夏を三春町恵下越(えげのごし)の災害公営住宅(恵下越団地)で迎えた。「野行でまた、渓流釣りがしたいな。夏でも爽やかなんだよ」。自然に囲まれた古里が恋しい。
野行行政区は東京電力福島第一原発事故で全域が帰還困難区域となった。望郷の念は少しも薄れないものの、全ての避難指示がいつ解除されるかは見通せない。悔しさといら立ちが入り交じる。
野行行政区は面積の約6%に当たる九十五ヘクタールが二〇一八(平成三十)年五月、特定復興再生拠点区域(復興拠点)に認定された。大槻さんの自宅周辺も含まれた。国は二〇二二(令和四)年春頃までの避難指示解除を目指している。
拠点内は環境省による建物の解体や除染が進む。村は田畑や牧草地の利用環境を回復させ、農畜産業の再開を後押しする計画を掲げている。村内では飯舘村のように拠点内外の避難指示を一括解除する「特殊事例」を目指す動きはない。
大槻さんは月に二回程度、野行に足を運ぶ。見るたびに変容している古里に戸惑う。「地元がどうなっちまうのか、まったく想像できない」
野行行政区の住民は七月一日時点で三十四世帯の百三人。三春町や田村市船引町、郡山市、いわき市など県内外の各地に避難している。避難先で家を新築した人もいる。
大槻さんが暮らす恵下越団地には葛尾村内から避難した七十三世帯百六十五人が入居している。大槻さんは自治会長を務め、年二回の懇親会などで団地内の交流を深めている。だが、原発事故前に毎日のように顔を合わせていた野行の人々と会えない寂しさは拭えない。
行政区の会合を年二回ほど開く。拠点整備の状況把握や住民の近況確認が目的だが、懐かしい笑顔に会える楽しみもある。住民に開催を通知する電話をするが、何度かけてもつながらない人がいる。「ばらばらの生活で、古里への気持ちも離れちまったのかな」。故郷を奪われてからの月日の長さを思い、ため息が漏れる。
野行行政区は県道沿いに青々とした水田が広がるのどかな地域だった。周辺を取り囲む山林で、山菜やキノコが豊富に採れた。
自宅は一九九七(平成九)年ごろに建て替えた。双葉地方森林組合に加盟し、林業に従事していた大槻さんは、許可を得て自宅に用いるための材木を集めた。楢葉町や浪江町の山林で切り出し、南相馬市鹿島区の製材所で加工した。木造二階建ての家は完成まで三年かかった。モミジ、ヒノキ、スギ、マツ…。室内には常に木の香りがした。
二〇一一年三月十一日の東日本大震災で村は最大震度5強の揺れに襲われたが、自宅はほとんど被害がなかった。原発事故で避難したものの、長きにわたって帰れなくなるとは思いもしなかった。
そして今、愛するわが家は基礎さえなくなった。