故郷への思い今もなお 国の線引き町民を翻弄【復興を問う 帰還困難の地】(26)

2020/09/22 08:05

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 濃紺の台を白球が行き交う。「うまくなったね」「何回続くかな」。東京電力福島第一原発事故で大熊町熊地区から会津若松市扇町に避難している無職浅野孝さん(67)は、市内の体育館で仲間と卓球を楽しむ。会津地方に避難した町民でつくるおおくま町会津会の会長を務めており、会の活動のほか、気の合う仲間との交流を続けている。

 大熊町は昨年四月に大川原、中屋敷両地区の避難指示が解除され一部の住民が戻った。帰還困難区域は二〇二三(令和五)年春までの避難指示解除を目指す特定復興再生拠点区域(復興拠点)と、復興に向けた方針が示されていない拠点外の「白地(しろじ)地区」に分かれる。中間貯蔵施設用地に土地を持つ住民もいる。同じ町内でも国の線引きにより境遇はばらばらだ。会津地方で避難生活を続ける理由も人それぞれに異なる。

 「同じ町に住んでいた人同士、つながりはあったほうがいい。笑顔が励みになる」。事情は違っても、古里を共有する仲間として肩を寄せ合う。

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 おおくま町会津会は二〇一三(平成二十五)年春に発足した。借り上げ住宅で暮らす町民が町の情報を得る場にしようと結成した。

 浅野さんが会に初めて顔を出したのは結成した年の秋。避難後、原発事故前から付き合いのある町民とは連絡を取っていたが、他の町民と知り合う機会がなかった。妻智枝子さん(65)が「たまには家を出て町の人と話してきたら」と背中を押してくれた。

 只見町の田子倉ダムに向かうバスツアーに加わった。他の参加者は知らない人ばかり。「どこに住んでいたんだい」「あの人のことは知ってるかい」。懐かしい風景、共通の知人…。会話の糸口を探り徐々に打ち解けた。遊覧船に乗り紅葉の美しさを眺めるうち、心が解きほぐされた。

 浅野さんは周囲に推される形で二〇一五年に会長になった。夏は北塩原村の雄国沼や新潟県の佐渡島など県内外への研修旅行を催し、秋は会津まつりで会津磐梯山踊りを踊った。二〇一七年以降は三月十一日におおくま復興祭を催した。町内の一部で人が住めるようになったのを受け、今年はおおくまのつどいに改めた。東日本大震災と原発事故の犠牲者を悼み、絆を強めた。

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 会員は当初約八十人だったが、いわき市などへ転居する人が相次いだ。現在は六十人弱で、集まりに顔を出すのは二十人ほどになった。会津若松市の町出張所が今年五月に移転したことで手狭になり、以前は出張所内にあった交流拠点がなくなった。それでも研修旅行は続け、今年七月は会津若松市北会津町でサクランボ狩りを楽しんだ。会津地方に住み続ける人、移住する人、町に戻る人に分かれても集まる時は心を一つにしている。

 帰還困難区域にある浅野さんの自宅は復興拠点や中間貯蔵施設用地から外れ、今後の除染計画は定まっていない。「もう大熊には戻れないと思っている」。でも、大熊町からは住所を移していない。古里への思いは簡単には断ち切れない。一日も早く元の大熊に戻ってほしい。国による線引きと、先行きを示さない姿勢に、多くの町民が翻弄(ほんろう)され続けている。