ごみ置き場ではない 最終処分場の懸念拭えず【復興を問う 帰宅困難の地】(55)

2021/02/14 09:02

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手作りしたやぐらの完成を喜ぶ土屋さん(下段)ら。野馬形行政区で毎年8月13日に催された盆踊りに欠かせないものだった=1985年夏
手作りしたやぐらの完成を喜ぶ土屋さん(下段)ら。野馬形行政区で毎年8月13日に催された盆踊りに欠かせないものだった=1985年夏

 いわき市に避難している大熊町行政区長会長の土屋繁男さん(72)は、中間貯蔵施設の運営を監視する「中間貯蔵施設環境安全委員会」の委員を務めている。

 年数回の会合では、事業の進捗(しんちょく)状況など最新のデータが報告される。気がかりなのは、二〇一五(平成二十七)年三月に除染廃棄物の搬入が始まってから六年が過ぎようとする今も、最終処分の場所が示されないことだ。「最終処分場にされるのなら、誰も土地を提供していない。大熊・双葉は放射性物質で汚されたごみの置き場ではない」と語気を強める。

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 土屋さんが区長を務める野馬形(のまがた)行政区は、三十五歳で東京からUターンした時期の一九八〇年代前半、二十~三十代の若者が徐々に増えていた。にぎわいを見せる一方、伝統的な文化や祭りは少なかった。

 土屋さんら地元の青年部は一九八五年八月に第一回の盆踊りを企画した。他の行政区の住民に太鼓や笛の演奏を教えてもらい、やぐらを手作りした。盆踊りは恒例行事として定着し、毎年八月十三日は会場に老若男女の笑顔が広がった。

 だが、東京電力福島第一原発事故により全ての住民が避難を強いられ、行政区は中間貯蔵施設の用地となった。土屋さんが古里を訪れるのは年に二、三回ほどだ。二〇一六年十月、国に土地と建物を売却して以降、足を踏み入れるたびに景色が変わっている。除染廃棄物を詰め込んだ黒い袋があちこちで山積みになり、山林が削られて平地になった場所もある。手作りしたやぐらは行政区の倉庫に眠ったままで、使う見通しは立っていない。

   ◇  ◇

 除染廃棄物は中間貯蔵施設への搬入開始から三十年以内の県外最終処分が法で定められている。だが、土屋さんには最終処分に向けた国の具体的な動きは見えない。中間貯蔵施設が万が一、最終処分場にされれば、失われるのは慣れ親しんだ景色だけでは済まない。人が二度と帰れない場所になるとの不安が拭えない。

 「搬入開始から三十年後の二〇四五年に、中間貯蔵施設があった場所に立ちたい」と願う住民もいる。土屋さんは「我々は、いつかは古里が戻ってくると信じ、土地や建物を提供している」と人々の思いを代弁する。

 中間貯蔵施設への輸送対象となっている廃棄物の総量は全体で約千四百万立方メートルとされる。東京ドーム十一個が満杯になる膨大な量だ。「あと二十四年しかない。どうやって最終処分するのか、国は早急に具体的な方針を決めるべき。必ず全ての除染廃棄物を中間貯蔵施設から運び出し、元の土地に戻してほしい」と焦燥感を募らせる。