【震災・原発事故10年ルポ】がれきの海に自失 浪江町 ロボット開発拠点に

2021/02/12 17:39

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浪江町請戸地区で、津波で打ち上げられた漁船の周辺を捜索する自衛隊員=2011年3月12日(渡部純撮影)
浪江町請戸地区で、津波で打ち上げられた漁船の周辺を捜索する自衛隊員=2011年3月12日(渡部純撮影)
浪江町の沿岸部に整備された棚塩産業団地=2021年2月
浪江町の沿岸部に整備された棚塩産業団地=2021年2月

■当時本社報道部から取材応援 渡部純

 南相馬市から浪江町にかけての沿岸部に、新産業を集積するために整備された福島ロボットテストフィールドが広がる。

 ロボットの性能評価や操縦訓練ができる世界に類を見ない国家プロジェクトの一大開発実証拠点だ。浪江町の棚塩産業団地内には、長距離飛行試験のための滑走路ができた。

 十年前、この場所に近い請戸、幾世橋地区に駆け付け、そこで見た惨状は、今も脳裏に刻まれている。

   ◇  ◇

 東日本大震災が起きた二〇一一(平成二十三)年三月十一日、取材で福島市から浪江町に入った。翌十二日午前十時すぎ、現場確認に向かう陸上自衛隊第四四普通科連隊(福島市)の車両に同行し、海へ向かった。

 六号国道から町内の請戸、幾世橋両地区に入り、棚塩地区へ進んだ。あり得ない角度で泥に埋まった車、倒壊した家屋の残骸、地表に乗り上げた漁船…。見渡す限り、がれきの海だった。

 生存者がいるかもしれない。「誰かいますか」と声をからしたが、反応はなかった。町役場に戻る途中、男性数人と擦れ違った。どの目も真っ赤に腫れ上がっていた。

 十年ぶりに足を運んだこの地。護岸工事や仮焼却施設への運搬のために行き来する大型トラックと何度も擦れ違った。海はすぐ先にあるのに、とても遠くに感じた。

   ◇  ◇

 町中心部にある町役場周辺は、昨年八月に道の駅「なみえ」がオープンし、日中はにぎわいを見せる。復興に向かって歩みを進める光景を取材しながら、十年前のあの日の町役場を思い出した。

 二〇一一年三月十二日早朝、浪江町役場で開かれた対策本部会議は混乱を極めていた。

 東京電力福島第一原子力発電所の1号機原子炉内の圧力が上昇し、政府は半径十キロ以内の住民に避難指示を出した。それを受け、当時の馬場有町長(二〇一八年六月死去)は住民を避難させるよう職員に指示した。

 「避難場所を指定しないと町民がパニックになる」「対策本部も避難区域に入る。どこに移したらいいのか」。徹夜で災害対応に当たってきた町職員の顔には疲労と戸惑いがにじみ出ていた。

 町役場の廊下では、女性が赤ちゃんを抱き締め、老夫婦が寄り添って毛布にくるまっていた。

 「自分一人ではありません。私の周りの皆が被災者ですから…」。津波から間一髪で逃れた女性=当時(70)=は語った。何人が犠牲になったのか。その時点で、被害の全容は誰にも分からなかった。

 そして、原発事故が多くの県民に深刻な影響を及ぼすことも、あの時は想像できなかった。(現本社報道部副部長)(2021年02月12日掲載)