

■当時郡山本社から取材応援 鈴木信弘
辺りは澄み切った冬の空気と静寂に包まれ、湖面は凪(な)いでいる。須賀川市長沼地区の農業用ダム「藤沼湖」を十年ぶりに訪れた。あの日、巨人の手で破壊されたかのように崩れ去った堤防は復旧し、当時の爪痕はない。今年も春になれば水田を潤し、一帯の自然公園は四季の移ろいとともに華やぐだろう。
再建された堤の上を歩く。ダム決壊による「陸の津波」の猛威を見せつけられた当時の記憶がよみがえる。
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二〇一一(平成二十三)年三月十一日。激しい揺れで藤沼湖の堤防は崩れ、鉄砲水が発生した。翌日、郡山本社報道部から取材の応援で現地に入った。ダムにあるはずの水は跡形も無く、本来なら見えないはずの湖底が目の前に広がっていた。
百五十万トンもの湖水はダム付近の簀ノ子(すのこ)川に沿って下流域の滝、北町両集落に濁流となって押し寄せた。流された車や樹木が一面に散乱し、川沿いでは基礎部分だけを残した家の跡が点在していた。
簀ノ子川の橋に、なぎ倒された巨木が引っ掛かっていた。「黒い水が宙を舞って向かってきたんだ」。橋の木にぶつかって空へと跳ね上がった鉄砲水を、当時目撃した住民はそう振り返る。
取材をしていると、遺体を引き上げる捜索隊の様子が見えた。「決壊だなんて、想像もしなかった」。家を流された会社員男性(58)=当時=の言葉に、返す言葉は見つからなかった。
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終戦直後の一九四九(昭和二十四)年に完成した藤沼湖は農業用水の役目を果たすとともに、自然公園としてキャンプ場や温泉、コテージが一帯に整備され、親しまれてきた。
七人の命が奪われ、一人が行方不明となった内陸の災禍から十年。堤防や湖畔の道路は再整備された。被害が甚大だった滝、北町両集落には防災公園や集会所が設置され、住宅の建て替えも進んだ。真新しい慰霊碑を除けば、当時をしのばせるものは少ない。
藤沼湖自然公園復興プロジェクト委員会は、震災後に湖底で見つかったアジサイを「奇跡のあじさい」と名付け、公園内での植栽や全国への株分けを通して震災の経験を伝えている。「記憶を風化させず、経験を次代に伝えることが大切」。自らも濁流の危機を間一髪で免れた深谷武雄委員長(75)は、強い思いを口にする。
地元では有志による震災体験の証言集作りが進み、語り部を目指す高校生も記憶の伝承を誓う。被災地の人々のそうした思いや営みを伝え続け、風化と戦うことは報道の使命でもある。防災公園を歩きながら、その思いを改めて胸に刻んだ。(本社報道部副部長)