【あの時の判断】元川俣町長・古川道郎氏 避難説明に心砕く 山木屋の未来、住民と懇談

2021/03/09 14:03

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震災、原発事故発生後の対応を振り返る古川元町長
震災、原発事故発生後の対応を振り返る古川元町長
山木屋公民館で開かれた計画的避難区域に関する説明会。400人を超える住民が詰め掛けた=2011年4月16日(川俣町役場提供)
山木屋公民館で開かれた計画的避難区域に関する説明会。400人を超える住民が詰め掛けた=2011年4月16日(川俣町役場提供)
震災と原発事故発生直後に川俣町内に設置された避難所。浜通りを中心に約6000人が一時、身を寄せた=2011年3月13日(川俣町役場提供)
震災と原発事故発生直後に川俣町内に設置された避難所。浜通りを中心に約6000人が一時、身を寄せた=2011年3月13日(川俣町役場提供)

 川俣町の古川道郎元町長は二〇一七(平成二十九)年一月十七日、町役場で開いた記者会見に車椅子で臨んだ。「職責を果たそうと全力で取り組んできたが、皆に迷惑を掛けていると感じている。町の発展と復興の推進を新しいリーダーに任せたい」。無念さをにじませながら任期途中での退任を発表した。

 二〇一五年十二月に脳梗塞で倒れて以降、入退院を繰り返していた。病身を押して公務に当たっていたが、介助がなければ移動できないほど病状は悪化していた。居住制限区域と避難指示解除準備区域が設定された山木屋地区の避難指示解除は最大の懸案事項だった。それを約二カ月後に控える中での苦渋の決断だった。

 「解除決定までの道筋を付けることができ、一つの区切りと考えた。だが、最後まで見届けたいという気持ちは正直あった」。その後、仙台市の東北大病院に入院し、まひが残る左手足のリハビリに専念した。古里の再生に尽くし、東奔西走した日々の記憶は常に頭を離れなかった。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の発生から約五年十カ月の月日が経過していた。

     ◇     ◇

 二〇一一年三月十一日午後二時四十六分、川俣町は震度6弱の地震に見舞われた。一部損壊を含め、町内の住宅約千四百棟が被災した。役場の建物は損傷が激しく、職員はヘルメットをかぶり、災害対応に当たった。

 翌十二日、双葉町の井戸川克隆元町長から電話が入った。「原発の状況が悪いらしい。町民を受け入れてほしい」。要請を受け、地震の被害がなかった学校の体育館など数カ所を避難所として確保するよう指示を出した。

 陣頭指揮を執る中、津波の被害に加え、未曽有の原子力災害によって着の身着のままで古里を追われた避難者の姿に心を痛めた。「困っている人たちを助けるんだ」。その後も、町を挙げて避難者を受け入れ、双葉郡の住民を中心に最大で約六千人が町内に身を寄せることとなった。

 震災発生から一カ月後の四月十日、政府から予期せぬ通告を受ける。町内の一部地域で年間積算線量が二十ミリシーベルトを超える可能性があり、住民を避難させる必要があるという。翌十一日、政府は山木屋地区を計画的避難区域に指定する方針を発表した。

 示された計画は一カ月後をめどに当時の山木屋地区の人口約千二百人の避難先を確保しなければならない切迫した状況だった。すぐさま、説明会を開き、住民らを前に避難の必要性を説いた。「健康を優先しなければならない。理解してほしい」と頭を下げた。住民は一様に困惑し、動揺を隠せない様子だった。「必ず元通りの環境に戻すんだ」と、固く心に誓った。

 原発事故からの復興に向け、休みもなく公務に明け暮れた。町内の除染を隅々まで徹底するよう国に求め続けた。山木屋では農地の表土剥ぎ取りなど環境回復につながる取り組みに力を注いだ。未舗装だった町道の舗装工事などインフラの向上にも努めた。

 当時、官房副長官を務めていた福山哲郎氏の依頼を受け、原発事故を検証する政府の事故調査・検証委員会の委員を務めた。委員の多くは化学や災害関連の有識者で構成されていたが、会議では気後れすることなく被災地の現状を伝え続けた。

     ◇     ◇

 山木屋の避難指示解除に向け、一定の見通しが立ち始めていた二〇一五年十二月六日の早朝、日課のランニングに出掛けるために自宅で身支度を整えていた。靴下をはこうとした時、体の異変に気が付いた。左手が思うように動かない。痛みはなかったが体調は見る見る悪化し、左半身の感覚がなくなっていった。

 「早く病気を治して仕事に戻らなければ。やらなければならないことは山ほどある」。救急車で福島市の病院に搬送される車中で考えを巡らせていた。前日には山木屋の住民と遅くまで懇談し、避難指示解除後の営農再開の在り方について意見を交わしていた。この時は四期務めた町長の職を辞するほどの大病になると想像だにしなかった。

 病の後遺症は現在も残る。自宅で療養しながら週三回リハビリ施設に通う生活が続いている。「体が不自由になった今だからこそ、震災直後に避難を強いられた人たちの気持ちが分かるんだ。教訓を生かし、今後あんなひどい思いをしないよう後世に伝えていかなければならない」


■川俣町の主な出来事

【2011年】

▼3月11日
 東日本大震災、東京電力福島第一原発事故発生。川俣町では震度6弱を観測

▼3月12日
 双葉町などからの避難者の受け入れを開始

▼4月11日
 原子力安全委員会が県内12地点で年間積算線量が20ミリシーベルトを上回る予測を発表。川俣町では山木屋地区が該当し、計画的避難区域の対象となる

▼5月15日
 山木屋地区の住民の避難が本格化する

【2013年】

▼8月8日
 計画的避難区域に設定された山木屋地区が「居住制限」と「避難指示解除準備」の二区域に再編される

【2017年】

▼3月31日
 山木屋地区の避難指示が解除される

▼7月1日
 復興拠点商業施設「とんやの郷」がオープン

【2018年】

▼4月5日
 小中一貫校山木屋小中が開校

【2019年】

▼3月31日
 児童不足により山木屋小が休校


10年を振り返って 心の安らぎが必要

 川俣町の古川道郎元町長は震災と原発事故の発生から十年を前に、福島民報社のインタビューに応じた。

 -山木屋地区の避難指示は政府からいつ、どのようなかたちで伝えられたのか。

 「二〇一一(平成二十三)年四月十日、当時の官房副長官の福山哲郎氏が町役場を訪れた。来訪の用件は事前に知らされていなかった。話の中で突然、山木屋を計画的避難区域に指定したいと切り出された。突然の宣告に返す言葉が出てこなかった。説明に納得できない部分もあったが、町民の健康リスクを第一に考えれば政府の方針に従う以外の選択はなかった」

 -除染は円滑に進んだのか。

 「徹底的な除染を行わなければ、住民は山木屋に戻れないと考えていた。当初、国は住宅周辺の二十メートルを重点的に除染する方針で、住民は不満を抱いていた。基幹産業だった農業の再開に道筋を付けるためにも、範囲を広げてもらうよう根気強く交渉した」

 -山木屋の避難指示が解除されてから、間もなく四年となる。

 「山木屋の住民の帰還率は依然として五割程度。農地で作物を作っても、含まれる放射性物質が基準値を超えるようなことはない。除染は徹底されているはずだが、不安を抱く人もいる。復興は心の安らぎが伴わなければ達成したとはいえない。現時点では、そこまで達していないということだ」