
震災前・富岡支局長 安島剛彦
楢葉町中心部に位置する復興拠点「笑ふるタウンならは」にある商業施設は、昼時には駐車場が埋まり、町民や復旧関連事業に従事する人らでにぎわう。
町内から広野町にまたがるJヴィレッジは、全国から児童らが集うサッカー大会も開かれるようになった。東京五輪の聖火リレースタート地点として、全世界に被災地の今を発信する。
復興に向けて着実に歩む現在の町の姿を取材するうちに、東京電力福島第一原発事故後、この地を訪れた時の記憶を鮮明に思い出した。
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福島第一原発の廃炉作業取材のためJヴィレッジに赴いたのは、東日本大震災から二年半が過ぎた二〇一三(平成二十五)年十二月十九日だった。サッカー日本代表「ジーコジャパン」が躍動していた鮮やかな芝生はどこにもなく、ピッチには砂利が敷き詰められ数百台という車が止まっていた。
原発事故直後から、日本サッカーの聖地は原発事故の収束作業に向かう人たちの拠点になっていた。
二〇〇三年に富岡支局に赴任し、四年間にわたって楢葉町など南双葉郡を取材した。当時、ワールドカップ出場を決めたサッカー日本代表の国内最終合宿には連日、一万人を超える人が訪れ、スター選手のプレーに目を輝かせた。施設の年間来場者も五十万人を数えた。町はJヴィレッジの知名度と、天神岬スポーツ公園、岩沢海水浴場などの資源を生かし、交流人口を増やした。
廃炉作業の取材に赴くバスの中から眺めた町には、当時の活気ある姿はなかった。全町避難が続き、時が止まったままの荒れ果てた風景が車窓を流れた。
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避難指示が解除されたのは二〇一五年九月五日。約七千七百人の町民のうち、当初は九百七十六人の町民が戻った。帰還や移住が進み、現在は四千人を超える人が暮らす。
「笑ふるタウンならは」には災害公営住宅百二十三戸が立ち、スーパーマーケットや食堂などが並ぶ商業施設「ここなら笑店街」もある。医療機関や子育て施設も近くに整った。震災前は遅々として進まなかった県道広野小高線の整備も急ピッチで進む。
いち早く、町に戻り自動車整備を通して復興を支えてきた鈴木自工社長の鈴木洋一さん(51)は「今は震災前より便利になったようにさえ感じる」と話す。
ホープツーリズムやスポーツを柱にした観光、新工場の進出など明るい兆しが多く生まれている。帰還率の伸び悩みなど課題は残るが、移住して復興の新しい力になる人も増えてきた。「新生ならは」は震災前よりさらに発展する可能性を秘めている。(現いわき支社報道部長)(2021年03月03日付掲載)