
十年前に勤務していた川俣町を久しぶりに訪ねた。「緑の中に輝く絹の町 かわまた」。町が掲げるキャッチフレーズにうたわれる通り、富士の見える北限として知られる花塚山や女神山など四方を山々に囲まれ豊かな自然が広がる。
古くは世界有数の絹織物の産地として栄え、蔵造りの趣ある建物が並ぶ。一方、町中心部を歩くとシャッターを下ろした商店も少なくない。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故という未曽有の災害は地方都市が抱える過疎と人口減少問題を一層加速させた印象を受ける。
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二〇一一(平成二十三)年三月十一日、川俣町は震度六弱の強い揺れに見舞われた。役場から五十メートルほど北にあった川俣支局が入る二階建てアパートは激しく揺れた。二階にいた私は、幼い娘を抱きかかえ急いで外へ飛び出した。振り返ると建屋はグネグネと揺れていた。状況が把握できず、当日は地震の被害状況を確かめるため管内を車で回った。至る所で甚大な被害が発生していた。
翌十二日、原発事故の影響で浜通りの住民に避難指示が出る。十三日には町内の小学校や体育館が避難者であふれていた。受け入れた避難者は最大で約六千人に上った。町役場は地震により天井が崩落するなど激しく損壊し、職員はヘルメットをかぶり災害対応に当たっていた。指示系統が混乱してもおかしくない中、交通整理や炊き出しに奔走する職員の姿を今も鮮明に覚えている。着のみ着のままで古里を追われた多くの避難者を受け入れた町の役割は大きかった。
約一カ月後、町内に衝撃が走った。政府が町内山木屋地区を計画的避難区域に指定した。福島第一原発から四十キロ以上も離れた町を分断する政策に、住民はやりきれない思いを抱いていた。
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二〇一七年三月三十一日に山木屋地区の避難指示が解除されてから、間もなく四年を迎える。広範囲にわたる除染は完了しており、未舗装だった町道が舗装され、復興拠点商業施設「とんやの郷」が整備された。コメの作付けが再開されるなど地区の基幹産業だった農業の再興に向けた取り組みも進む。
ハード面の整備はおおむね完了しているが、地区に戻って生活を再開した人は半数に満たない。震災、原発事故から十年を迎えた今、輝きと活力あふれるまちの再興を改めて願う。(本社販売部)=おわり=