【福島医大の挑戦】(5)「被ばく医療」 知識や経験足りず 反省整理、社会に還元

2021/03/25 11:47

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原発事故直後、放射性物質が付着した傷病者の受け入れを前に、診療手順を確認する長谷川氏(左)。右は長崎から応援に来た被ばく医療支援チームの医師
原発事故直後、放射性物質が付着した傷病者の受け入れを前に、診療手順を確認する長谷川氏(左)。右は長崎から応援に来た被ばく医療支援チームの医師

 二〇一一(平成二十三)年三月十一日の東日本大震災、それに伴う津波、東京電力福島第一原発事故によって福島市の福島医大にも大きな動揺が走った。「これだけの複合災害に対応できるような組織体制ではなかった。医療従事者の知識や経験も足りない状況だった」。当時、救急医療学講座で助教を務めていた現放射線災害医療学講座主任教授の長谷川有史(53)は、救急医として未曽有の大災害で緊急被ばく医療の最前線に突然立つことになった。それから十年がたち、自戒を込めて回想する。

 福島医大付属病院は原発事故直後から原発構内の作業員ら放射性物質の付着した負傷者数人を受け入れた。余震が続く中、長谷川は慣れない防護服やマスク姿で診療した。放射性物質が自分や患者にどの程度影響するかもよく分からなかった。災害派遣医療チーム(DMAT)などの支援者が原発の緊迫状態を受けて撤退していく。取り残され、極限状態に追い込まれた思いだった。自分たちの知識や経験の乏しさも痛感していた。

 福島医大付属病院は県内で唯一の「二次被ばく医療機関」に指定されていた。ただ、長谷川は、一般の医療者にとって原発事故が起きるまでは、国内の被ばく医療は地域医療や救急災害医療と別世界の分野だったのではないかと感じている。「専門家による『特殊な医療』の色合いが強かった」。ましてや原子力災害に関する国際評価尺度でチェルノブイリと並んで最悪となる「レベル7」の事故などは想定外だった。

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 長谷川は二〇一四年、新設された放射線災害医療学講座の初代教授に就任した。長期に及ぶ廃炉作業で起こり得る健康問題への対応や、3・11の経験と反省を整理し体系化して社会に還元する仕組みの構築という二つの使命を自らに課した。

 翌年には福島医大が原発事故時の医療派遣チームの調整などを担う「原子力災害医療・総合支援センター」に指定され、放射性物質による汚染や被ばくが絡む急性期傷病に対応する体制の充実を急いだ。国内の被ばく医療をリードしてきた長崎大や広島大、放射線医学総合研究所(現量子科学技術研究開発機構)、海外の研究機関との連携も深めていった。

 原発事故直後には部門間の連携がうまく取れなかった。その教訓から、自然災害や原子力災害、バイオテロなどに一元的に対応する「災害医療部」を付属病院長の直轄として付属病院に設けた。部署間の縦割りを解消し、幅広い職種が一体となって困難に当たるこの仕組みは、今年二月の最大震度6強の地震でも生きた。発生二時間後には対策本部会議を開けるなど迅速な対応につながった。

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 長谷川は看護師や技師、事務職ら医師以外の病院職員をはじめ、行政、消防、自衛隊といった機関の関係者との連携こそが不可欠との考えでこの十年間を歩んできた。医学生や医療従事者、消防職員らが仮想空間で原子力災害やテロ現場の活動を疑似体験できるソフトウェア「カワウチ・レジェンズ」を開発するなどの成果を積み上げている。

 目標とするのは、福島第一原発事故から得られた知識と経験を他の災害や危機対応に幅広く応用できるよう、医療人のみならず、一般の国民レベルにまで広めることだ。「原発事故など大規模災害には医者だけ、一病院だけでは対応できない」との確信がある。

 全国各地では大規模災害が相次ぎ、原発の再稼働の動きも進む。原発事故の記憶の風化が叫ばれる中、医大の経験や知識を社会に還元するため、自分たちには何ができるか-。長谷川は考え続けている。(文中敬称略)