
福島県や沿岸部の市町村などで11日に行われた東日本大震災の追悼式では、遺族代表が震災犠牲者に鎮魂の祈りをささげた。家族を失った悲しい過去と向き合いながらも、故人に「成長した姿を見せたい」と前に向かって歩む決意を示した若者がいた。「どんなに時が過ぎても悲しみは癒えない」と吐露する遺族もいた。震災から11年という歳月をかみしめ、多くの県民が自らを愛し、支えてくれた大切な人たちに思いを寄せた。
「父と別れることはつらく悲しいことでしたが、幼いながらそれを受け入れ、強く生きていこうと決めました」-。相馬市の追悼式で佐藤優瞳稀(ゆめき)さん(18)は、遺族代表の言葉で11年前の決意を明かした。
市内磯部で一緒に暮らし、市消防団員だった父峰生(みねお)さん=当時(30)=を津波で失った。小学1年だった優瞳稀さんは下校後間もなく自宅で被災した。市内の職場から1度は自宅に戻り、消防団の出動に備えた峰生さんが言った。「津波が来る。早く避難しなさい」
同居する祖父孝秀(よしひで)さん=2018年に死去、享年(64)=、祖母和美さん(62)と3人で磯部小に向かうよう送り出された。優瞳稀さんは父の最後の言葉を覚えている。「パパも後から行くから」。だが、峰生さんは震災から8日後、自宅から約3キロ離れた場所で見つかった。
父の死後、大工だった孝秀さんの仕事場に時々ついて行った。「家を失った人にとって、家を再建することは生きる力になるんだ」。祖父の仕事ぶりを見て「自分も建築の仕事がしたい」と思うようになった。
相馬高を今春卒業し、東北文化学園大(仙台市)の工学部建築環境学科に進む。「自分をしっかり持て」。父に代わって育ててくれた祖父の言葉と祖母の優しさに感謝し、進学後は広い視野で多くの学びを得るつもりだ。夢へと前進する姿を「父にも見守っていてほしい」と願った。
南相馬市の追悼式で代表献花に臨んだ市内原町区の宮口公一さん(64)は「遺族みんなの無念さを胸に花を供えた」と振り返った。
父貝治(ともはる)さん=当時(77)=、母キクさん=同(78)=を津波で失った。市内小高区沿岸の井田川地区にある自宅に3人で暮らしていた。
2人の死亡が確認されたのは半年も過ぎた後だった。震災の後、避難所で会った近所の知人の話では、2人は避難を促しても「家の片付けをしてから行く」と応じなかったという。
追悼式の祭壇で花をたむけ、「なんで逃げなかったんだ」と改めて2人に問い掛けた。この11年間、両親との突然の別れを悔やんできた。「気持ちは何年たっても変わらない」。2人を悼みながら、これからも日々の営みを続けていく。
南相馬市原町区の高田求幸(もとゆき)さん(83)は津波で弟の故俊英さんの妻宥子(ゆうこ)さん=当時(69)=を亡くした。県主催の追悼復興祈念式で遺族代表として「今でも胸が痛む」と11年、変わらぬ思いを口にした。
弟夫婦は沿岸部の自宅から車で逃げようとしたところを津波に襲われた。俊英さんは何とか難を逃れたが、宥子さんは行方不明になった。「自宅まで津波が来るはずないという意識が逃げ遅れにつながった」といまだ無念な思いを抱えている。
2年前に弟は亡くなり、求幸さんは双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館で語り部を務めている。いつどこで起こるか分からない災害の恐ろしさや、原発事故で捜索を中断せざるを得なかった遺族の悔しさを伝えたいとの思いからだ。「災害に出くわした時、おのおのがどう行動するか。家族で話し合うことが防災につながる」と日々、来館者に語りかけている。