十文字の河童の話(10月29日)

2023/10/29 08:54

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 『永井の昔ばなし―ふるさとの民話と伝承―』という本がある。その本に「十文字の河[かっ]童[ぱ]」という次のような話が所収されている。

 いわき市三和町の上永井と沢[さ]渡[わたり]の境は十文字と呼ばれ、そこには小さな川が流れていて、二本の丸木橋が架かっていた。そして、そこには河童がいるという話が古くから伝えられていた。しかし、この頃では、そこで河童を見たという者はいなかった。

 ところが、ある年の秋祭りの帰り、沢渡の神[かん]主[ぬし]がほろ酔い気分で十文字に差しかかると、「小さな男の子が橋のまん中に腰かけて、細い足で水面をパシャッ、パシャッとたたきながら遊んでいる」(『永井の昔ばなし―ふるさとの民話と伝承―』)。神主は「これ、童[わら]子[し]、こんなに暗くなんのに、そんなに足つん出して、風[か]邪[ぜ]ひいたら、なじょにすんだ。母[かあ]ちゃん、心配すっぺに、早[はよ]う帰れやと声をかけた」(同前)。

 しかし、男の子は聞こえない様子で、足で水面をパシャッ、パシャッとやっている。神主が「これ、童子…」(同前)と再び、声をかけると、男の子は「ニッと笑うと、とんぼ返りをして、真っ逆さまに川に飛び込んでしまいました」(同前)。神主はあっけにとられ、しばらくはボーッとしていたが、「カッパだ。カッパだ」(同前)と叫ぶと、みやげの包みを放り投げ、夢中で駆け出した。里に近づくと、家の灯りが見えた。「灯りがついていた家にかけ込んだ時には、顔は真っ青、冷汗たらたらで、酔いも一ぺんにさめていました」(同前)。

 「オラー、カッパ、見て来た。頭の上さ、ついでだ柿のしっぺたみたいなものも、背中さ、ついでだオチョンコみたいなもんも、ありゃ、童子でない、話に聞いていたカッパだ」(同前)と、神主が必死で訴えても、その家の人たちは、酔っぱらいの話なんか、信じられない。一体、何を見たのかしらと笑うだけだった。

 酒に酔った神主が夢か、幻を見たのだろうか。でも、「大雨が降って、どこの橋も流れてしまった時でさえ、雨上がりに、ここに来ると、二本の丸木橋はいつも、ちゃんとかかっていて、沢渡の人や永井の人たちが不自由な思いをすることはなかったというから、不思議な話であります」(同前)という。

 『永井の昔ばなし―ふるさとの民話と伝承―』は、四十年前の昭和五十八(一九八三)年三月、いわき市立の永井小学校と永井中学校のPTAの人たち、自らの手によって作られた。「とぎれとぎれに話をしてくださる古老の昔ばなしを記憶し、あるいはメモしたものを家に持ち帰って整理し、文章化」(同前)した。強い思いと並々ならぬ努力の末に出来上がった珠玉の昔話集だ。

 ところで、この本には昔むかしで始まる遠い昔の話だけではなく、この本が作られた頃の地域の出来事などを題材にした話も所収されていて、そこが、また、この本の大きな魅力になっている。(夏井芳徳 医療創生大学客員教授)