東日本大震災・原発事故

【あなたを忘れない】最愛の家族 今も夢に 3人の孫、立派に成長 ~福島県南相馬市~

2025/03/11 09:47

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仏壇を前に、鎮魂の祈りを捧げる勝彦さん
仏壇を前に、鎮魂の祈りを捧げる勝彦さん

 福島県南相馬市原町区の中川勝彦さん(69)は、東日本大震災の津波で亡くなった3人を片時も忘れることなく日々を歩んできた。野菜づくりが得意だった母、長年支えてくれた妻、真面目に働き家庭を大切にしていた長男―。「3人の分も懸命に生きるよ」。あの日から14年。誓いを胸に刻み、最愛の家族に鎮魂の祈りをささげる。

 福島県南相馬市小高区村上の海沿いの自宅で穏やかに暮らしていたが、震災で一変。母のカツヨさん=当時(77)=、妻礼子さん=同(55)=、長男一也さん=同(31)=が津波にのまれた。

 カツヨさんは明るく、ハキハキした人だった。自宅前の畑で白菜やジャガイモなどを育て、市内外の知人にお裾分けしていた。「さまざまな人と付き合いなさい」という教えは、今も勝彦さんの中で息づく。礼子さんは縫製会社に勤めながら家事をこなした。料理が得意で、震災当日も礼子さん手製のカレーライス弁当を手に仕事に出かけた。今も妻の料理の味が忘れられない。一也さんは物静かで真面目だった。地元の精密部品製造会社で働いていた。手先が器用で、地元農家の農機具を直すこともあった。消防団に所属し、地域や家族を守るために活動していた。


 地震発生時、カツヨさんと夜勤明けだった一也さんは自宅にいた。礼子さんは勤務先から帰宅。流された礼子さんの車には権利書などの貴重品が残されており、荷物をまとめて避難しようとしていたようだった。

 当時建設会社に勤めていた勝彦さんは、東京電力福島第1原発で被災したが、難を逃れた。避難生活を経て震災から約1年後、福島県南相馬市に戻った。市内原町区の仮設住宅に住みながら、火発の足場組み立ての現場監督や住宅の解体作業などに従事した。現在は一線を退き、ゴルフやパークゴルフ、バドミントン、卓球などのスポーツで多くの仲間に囲まれながら汗を流す。


 震災を振り返るたびに、ふと思うことがある。被災当日の午後2時ごろ、一度家に戻ろうとしていた。ただ、偶然別の現場に向かった。帰宅していれば津波にのみ込まれていた可能性が高い。「3人がこっちに来るなって言ってくれてたのかな」。今ある命は3人からの贈りものかもしれない。

 14年たった今も、かつての自宅で家族と食事や仕事をする夢を月に2度ほど見る。たわいのない会話を重ねる家族だんらんの温かな夢だ。母、妻、長男ら家族の姿はあのころのまま。震災直後から見始め、時が止まったように変わらない。夢の中の自分は現実だと思い込み、3人につられて笑顔を浮かべている。朝、目が覚めると「やっぱり夢か」と落胆するが、夢の中でのひとときでもうれしい気持ちになる。

 一也さんの幼かった3人の子どもは大きく成長した。長男と次男は二十歳を過ぎ、長女は高校2年生だ。かなわない望みだと知りながらも、成長した孫が亡くなった3人と再会する夢を見られないかと心から願う。「おまえの分まで立派に生きているぞ」。11日は墓前で静かに手を合わせる。