【あの時の判断】前知事・佐藤雄平氏(上) 県独自に避難指示 国の縦割り、慣例と「闘い」

2021/03/01 12:12

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東日本大震災と東京電力福島第一原発事故発生からの対応などについて振り返る佐藤雄平氏
東日本大震災と東京電力福島第一原発事故発生からの対応などについて振り返る佐藤雄平氏

 東日本大震災が発生した二〇一一(平成二十三)年三月十一日午後二時四十六分から約六時間が経過した午後八時五十分、県政史上初となる指示が県から出された。「東京電力福島第一原発から半径二キロ以内の住民の避難」-。

 本県を襲った大規模な津波の被害によって、全電源喪失となった原発では、注水による炉心冷却が不可能となった。炉心溶融(メルトダウン)など最悪の事態に備え、国の指示を待たずに、県が独自に判断した。

 佐藤雄平前知事(現神奈川大学長特別顧問)は国、東電からの情報や説明の少なさに翻弄(ほんろう)される中、県民の生命を守るために自ら決めるしかない状況だった。

 その後、原発の1号機、3号機で水素爆発が発生した。

 放射性物質が飛散し、県民の日常が一変した後も、国の縦割りや慣例主義などとの「闘い」が続いた。

     ◇     ◇ 

 「原発はどうなったのか」。県庁本庁舎が大きな揺れに襲われた直後、県民二百万人の安否とともに福島第一、第二の両原発の状態が頭をよぎった。

 災害対策本部が置かれた県庁隣の県自治会館で情報を収集する中で、地震や津波による甚大な被害とともに夕方に福島第一原発で一部プラントの注水機能が停止したとの一報が入ると、県幹部は緊迫した雰囲気になった。

 「東電、東北電力が電源車を向かわせた」「避難する車で道路は混雑している」。さまざまな報告が飛び交った。国や東電本社を取材するテレビによって先に知る状況もあった。「大切な情報が伝わらなかった部分はあった」と非常時の国や東電との伝達手段の課題を振り返る。

 十一日午後七時三分。菅直人首相(当時)は国内で初めての「原子力緊急事態宣言」を発令した。津波で外部、非常用電源を失った原発の1、2、3号機は原子炉の水位が低下していた。

 午後八時半すぎ。2号機のデータは、あと一時間程度で燃料露出の可能性を示した。東電の担当者が県災害対策本部に駆け付け、「このまま原子炉内の水位が低下すれば、燃料棒が露出し、外部に放射性物質が漏れ出る可能性がある」と報告した。

 すぐに県幹部職員を召集し、対応を協議した。同じ情報は政府にも届いているはずだが、動きはない。県として「避難指示を出すべきか」-。時間はかけられない。二十分後、2号機から半径二キロ圏内に住んでいる大熊、双葉両町の住民の避難指示を決断した。それまでの県による原子力防災訓練で実際に住民が避難に参加した範囲などを踏まえ、規模を決めた。

 その後、電源車が到着したとの情報を聞き、翌十二日午前中に津波被災地の視察に向かった。しかし、実際には不具合などにより電源の復旧はできず、数時間後の十二日午後三時三十六分、1号機が水素爆発した。「不具合自体も後で聞かされた。複合災害で大変な状況ではあったが、情報共有をもっと徹底してほしかった」と激しい憤りを隠さない。

     ◇     ◇

 目に見えない放射性物質の被害に県民が苦しむ中、福島と中央の温度差にもいら立った。

 県内のある首長から「放射線量が安全な地域が教えてほしい」と言われた。経済産業省や東京電力に情報提供を求めたが、具体的な回答はなかった。

 「福島ナンバーの車が給油を断られた」「県民が県外の宿に宿泊できなかった」-。いわれのない風評の情報が届くたび、放射性物質から県民を守るための決意を強くした。

 放射線の影響が不安視された若い世代を守るための対応には特に力を入れた。市町村から上がってくる声を県としてまとめ、校庭や通学路の除染、線量計の整備など学校の放射線対策について早期に国の財政支援を求めた。先行して表土除去などの対策を取っていた市町村への財政支援も約束させた。モニタリングの範囲などを巡って、当時の菅直人首相にきめ細かく行うよう強く主張した。

 「複合災害に遭った福島に寄り添い続ける姿勢を法律で担保させなくてはいけないと早くから考えていた」。震災、原発事故からの復興を恒久的に国に支援させるため、福島復興再生特別措置法の立法に尽力した。

 雇用や産業の復興に向けた他の被災地を上回る税制優遇などだけでなく、県民の健康管理への長きにわたる財政支援も実現させた。

 震災、原発事故の発生から間もなく十年となる中、インフラ面での復旧は順調に進んだと実感する一方、いまだ約三万六千人の県民が避難を続ける中、地域のつながりや県民の心の復興が一層重要になると考える。

 「原発に関して事故は皆無と聞かされていたが、『安全神話』はもろくも崩れた。『想定外』を想定した備えが必要だとしっかりと学ばなくてはいけない」。誰も経験したことのない未曽有の原子力災害で、県民のトップとして指揮を執った経験から、今後の体制づくりの必要性を訴えた。


■東日本大震災、東京電力福島第一原発事故発生直後の県内の主な出来事

【2011年】

▼3月11日
 東日本大震災発生 県が災害対策本部設置。津波により福島第一原発で炉心の冷却機能が停止し、夜に政府が原子力緊急事態宣言を発令。県が同原発から半径2キロ以内の住民の避難を独自に要請

▼3月12日
 福島第一原発1号機で水素爆発 夜に国が避難指示の範囲を半径20キロに拡大

▼3月14日
 福島第一原発3号機で水素爆発

▼3月17日
 自衛隊がヘリで福島第一原発に水を投下するなど注水作業が続く

▼3月21日
 佐藤知事が避難所に指定されている福島市のあづま総合運動公園体育館を訪問

▼3月30日
 県が福島第一原発から20キロ圏内を警戒区域にするよう国に要望したと発表

▼4月12日
 原子力安全・保安院が福島第一原発事故の深刻度をチェルノブイリ事故に匹敵する「レベル7」と評価

▼4月19日
 国が学校の放射線量調査の結果により、13校・園が屋外活動が制限されると発表

▼4月22日
 福島第一原発周辺を20キロ圏内を住民の立ち入りを禁止する警戒区域に設定。また、計画的避難区域、緊急時避難準備区域の指定も発表。東京電力の清水正孝社長が佐藤知事に面会し、謝罪

▼4月27日
 郡山市で放射線量を下げるための小学校などの表土はぎ取りを実施

▼5月9日
 原発周辺の高校の生徒が避難先近くの学校で授業を受けるサテライト方式を開始

▼5月10日
 警戒区域への一時帰宅が川内村をトップに始まる

▼5月20日
 県が東日本大震災復旧・復興本部を設置

▼6月16日
 政府は放射線量が局所的に高い地点について特定避難勧奨地点に指定すると発表

▼6月19日
 佐藤知事が首相官邸を訪れ、菅直人首相に子どもの放射線対策への財政支援を要望

※肩書などは当時


10年を振り返って 東電の姿勢に疑問

 前知事の佐藤雄平氏(現神奈川大学長特別顧問)は震災と原発事故から十年を前に、福島民報社のインタビューに応じた。事故直後から現在までの東京電力による情報発信の消極的な姿勢に疑問を投げ掛けるとともに、「今後も廃炉作業に真摯(しんし)に取り組み、県民には最優先で情報を公開してほしい」と訴えた。(聞き手・編集局長 安斎康史)

 -事故直後からの東電の対応をどう見るか。

 「『官僚以上の官僚』と昔からいわれていた体質を改めて感じた。震災当日の電源喪失からの復旧に関してもなかなか正確な情報が伝わらなかった。事故に関する東電本社の記者会見もひとごとのように聞こえていた。福島でやらなければ現状の厳しさが全国に伝わらないと思い、現地での会見実施を強く求めた。構内の処理水を保管するタンクが地震でずれた問題を即座に公表しないなど、今でも改善されていないように映る」

 -本県の復興の現状をどう見ているか。

 「福島に残っていた日本古来の文化や地域のつながりは、原発事故によって希薄になった部分がある。避難した地域に人が戻ることで精神的な復興が実現すると考えるが、戻りたくても帰還困難区域のままの地域もある。精神面の復興はまだ途上と感じる。心と心のつながりを取り戻すのに加え、山木屋太鼓に代表されるように、復興の象徴となる地域の文化をしっかり残すことが重要だ」

 -震災直後から若い世代の取り組みを後押ししていた。

 「震災があった二〇一一年の八月に開催された全国高校総合文化祭(ふくしま総文)は一時中止が危ぶまれていたが、高校生たちの熱意を受けて開催を実現させた。福島の復興の真のスタートになったように思う。劇などで古里を思い、よみがえらせると誓った生徒たちの姿を見て自分も大きな力をもらった。中学生による少年の主張では『社会の役に立ちたい』と感謝の気持ちを忘れない子どもが多く、毎回楽しみだった」

 -福島と県民への思いを聞かせてほしい。

 「これまで培われた農業を基盤とした福島の風土と福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想の施設などを組み合わせ、新しい農工一体の地域づくりはできると思う。これからの復興を支える地元生まれの若者たちが帰ってくることを願っている。そして子どもたちをはじめ県民に伝えたいのは電力県である本県が日本の経済成長を支えたということだ。将来にわたって自信を持って伝え続けてもらいたい」